君死にたまふことなかれ

 あゝおとうとよ、君を泣く

 君死にたまふことなかれ

 末に生まれし君なれば

 親のなさけはまさりしも

 親は刃をにぎらせて

 人を殺せとをしへしや

 人を殺して死ねよとて

 二十四までをそだてしや



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 有名な、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』という詩である。

 この詩の中では、与謝野晶子が戦争に取られる弟に向けた言葉であるが、これは親子にも当てはまる。兵隊に召集された子を持つ親の、素直かつ当たり前な気持ちを表してもいる。

 確かに、この世界に絶対の正解などなく、こう思わないからといって悪だとか、ダメだとかいう話は、悟りの次元においてはない。しかし、一定のルールを築き上げ、自ら進んでその箱の世界の中に納まったのが人類だから、自業自得である。この限定的ゲーム世界の中では「親が子に死なないでほしいと思うのは自然であり、当たり前」だと言える。



 昔、キリスト教徒(クリスチャン)が「キリシタン」と呼ばれていた時代。

 神の元に人間は皆平等、という教えが広まるのを恐れた封建社会の君主によって、キリシタン弾圧が行われた。それを命じた代表的な人物としては、豊臣秀吉や徳川家康が有名だろう。

「踏み絵」というものが行われ、キリシタンをあぶり出す作戦に出た。

 イエスや聖母マリアを敬う者は、命に代えても絵を踏むことはできない——。

 聞けば、踏み絵をできないで処刑された者は、死に至るまでに言葉にするのもイヤになるような拷問を受けたという。それでも、女子どもも含め役人も驚くほど、彼らは「恐れずに」死んでいった。喜びの笑みを漏らす者までいたという。



 物事は、見方によって万華鏡のように変化をする。

 何かを言っても、どうしてもその逆もあり、その逆の面に重きを置く人に批判される宿命を負う。だから、この「殉教」ということに関しては、他人の脅しや圧力に屈せず、己の魂の自由を命を賭しても選び取った、神への信仰を貫いたという部分で、賞賛されるという側面はあるだろう。確かに、立派である。現に、カトリック教会によって最初に秀吉に処刑された者達は「日本二十六聖人」と認められている。

 キリスト教を信じる視点では、今の話は「美談」になる。

 一部からは批判が出ることを承知で、今日はあえてポイントを絞った、人を選ぶメッセージをしてみよう。筆者の目には非常に残念な話に思える。

 命まで懸けた者に申し訳ないが、視点が狭すぎる。



●この世界には、命を懸けるくらい必死になるに値することはある。

 でも、それは「命を懸けるくらい」という程度を表しているのであり、実際に命を落とす価値のあることなど世界に存在しない。



 与謝野晶子の詩を思いだしてみよう。

 たとえば、イエスが人類の親のような立場だと考えてみよう。

 ある殉教者が、耳を削がれ鼻を削がれ、その人物の親なら正視に耐えない光景の中死んで、イエスの前に現れたとする。で、こう言う。

「イエス様、私はあなたへの信仰を貫きました! 誘惑にも屈さず、死にたくないという恐怖にも屈さず、踏み絵をせずあなたのもとへ参りました。おほめくださいますよね?」

 イエスは、きっとこう言うだろう。



●この、バカ者!

 どんな崇高な目的があっても(そんなもんないが)、どこの親が子がそのために命を捧げ切っても、でかしたとかよくやったとか、父さんは嬉しいぞとか言うと思うか? アホ言え。生きていてほしいに決まってるやろ!

 オレの顔くらい踏めや! なんで踏まん? 生き延びて欲しかったよ。

 生きているからこそ、ええこと起こるかもしれんのやで。奇跡もあるかもしれんのやで? そんな風に育てようとした覚えはないんやけどなぁ。

 何かの目的のために死ねって、そのほうが魂として上等やなんて決まり事どこにもないんやけどなぁ。どこで、そんな間違いが起こった??



 遠藤周作の『沈黙』という小説は、その辺りの「イエスの愛」を巧みに描いている。イエスは、信仰を守り通してほしいとは思っていない。あなたが生きながらえることができるなら、表面的に棄教したってかまわない。

 そのことで、あなたを「もう私の子とは認めない」なんて、そんな心のせまっちいことをイエスが言うと思うか? 

 今日のメッセージは、すべての人向けではない。命を懸けて何かを守った、ということを立派だと思いたい人もいる。

 実際、その行為によって恩恵を受けた者もいるだろう。彼らには、筆者の今日の言葉は向かない。今日私が語りかけたいのはどういう人たちにかというと——



●こうするほうが立派で格好がいいとは頭で分かっている。

 でも、やっぱり怖い。死にたくない。無様でも助かりたい。

 でも、後で皆にどう思われるやろ。どう評価されてまうやろ……

 


 そんな風に、少しでも逃げたいという思いがあるのに、それではだめなんじゃないか、と無理に自分を鼓舞して、ホンネに逆らって「無理して」立派な道を選んでしまう人たちへの助言である。

 弱くていいんだよ。

 逃げてもいいんだよ。

 生きて、いいんだよ。

 そのためには、何かに迷惑をかけてもいいよ。

 その迷惑をかけられた何かも、分かってくれるさ。

 宇宙は、それをゆるさないほど了見の狭いところではないよ——。

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