あなたしか見えない?

 まずは、笑い話から。



●問題:「お前は太っている」ということを、相手が傷つかないように優しく表現してください。


●答え:『あなたしか見えない』



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 皆さんは、幸せになりたいと思っているだろうか。

 思ってもらわないと困る。スピリチュアル話のほとんどは、人々が皆幸せを求めて生きてる、ということを前提に話が進むから。そうでないと、困ってしまうではないか!(笑)

 まぁ、そういうことにしといて。で、あなたはその幸せがどんな幸せであることを願うだろうか? できるかどうかは別問題として、「完全な幸せ」を望まないだろうか? (いいや、望むはずだ)



 たとえばだが、「残りの人生では、4分の3くらい幸せに過ごせたらいい。この世界で生きる以上はそう甘くはないと思うので、4分の1くらいなら不幸でもガマンできますので、それくらいでお願いします」なんて祈る人は果たしているだろうか。そんなやつおれへんやろ~!(こだま・ひびき談)

 確かに、今紹介した世界観は的を外しちゃいない。よく見極めている意見だ。

 でも、それじゃあまりにも夢もロマンもないやろ……ってことである。



 AKBだって、オーディションに受かって一員になった以上、総選挙1番を(気持ちの上では)目指さないだろうか? センターを本気で取りにいかないだろうか?

 マラソンだって、1位になれるのはたった一人だが、だからって1位を目指して皆走らないだろうか?(もちろん、学校のマラソン大会とかじゃなくてプロのでるやつ) そうでなきゃ、観衆や応援してくれる人をバカにするにもほどがある。

 プロの競技とは、そうあるべきである。トップの椅子はひとつだが、全員が「オレが(私が)なる!」と本気でしのぎを削るからこそ見ていて面白いし、感動もするのだ。



「完全なものを願う心」は、この幻想世界に生きる我々舞台キャラに与えられた贈り物。もちろんそんなものは絵に描いた餅であり、永遠に得られることはない。得られないのに、なぜそれを願うことはできるようになっているのか?

 それくらい(完全)を目指しておくくらいが、丁度いいからだ。

 それだと、究極目的(完全幸福)はムリでも、そこを狙って動いていればそれに近い場所をゲットできる。もしそれが、最初の目標自体がその「完全よりもかなり手前の、現実的な位置」ならば、実際にはその少し後ろの結果になることが多いのだ。

 マラソンで、1位になってやる!と思って走らない者が1位を取れるわけがない。でも一位を目指して走った者の中から、たった1人だけしか選ばれない。逆に言えば、1位を目指して走ったって、2位や3位という結果になることは十分に考えられ、そちらのほうが確率的にも高い。

 1位を目指して走ってさえそうなるのに、ましてや「2位くらいでいか」「まぁ3位でも」なんて程度の気合いで走ったら、1位なんてまずない。5位とか6位がいいところではないだろうか。



●完全を願う心は——

 それ自体を得られずとも、いい線までに落ち着けるための方便。



 だから、実際に得られずとも、それを真剣に願うことで実現でき得る範囲での一番良い結果を取ることができる——。完全を願える心は、この相対世界で「なるべくよいもの」を得るために与えられたツールなのだ。

 スピリチュアルで「無条件の愛」などという言葉が飛び出すことがあるが、あれなどは……



●絶対に得られないそれを目標にすることでその手前の、現実的にマシな落としどころを作る工夫。方便。



 そのために「無条件の愛」などという発想が意味があるのであり、実際にあるなどと思っているならあなたは「TVに映っているウルトラマンや仮面ライダーが実際にこの世界にいる」と思っているようなものである。



 ちょっとここで、話の角度を変えよう。

 長く生きていればあなたが心底「幸せ」と感じる瞬間もあると思うが、ちょいと悟りの視点から、水を差すようなことを言う。



●あなたが100%幸せで、これ以上はないと本気で思える境地の時、それは精神的には「最高」の状態ではない。

 むしろ、子どもが遊びで喜ぶレベル。魂としては非常に幼い段階で感じるものが「至福」である。



 幸せとは、盲目的になることによってしか得られない。

 例えば、南半球で飢えて、紛争などで死んでいく人々のことを考えないでこそ、今あなたは自分の置かれた世界を見ること限定でこそ幸せを感じられる。

 この幻想世界・相対世界では、純粋な幸せなど、何かに意図的に目をつむることでしか得られない。遠い世界、不幸がある世界に対して視界を狭め、無感覚になることでしか得られない。まさに冒頭の冗談の「あなたしか見えない」 状態。

 幸せだ、と思える根拠にだけ意識をフォーカスできることで得られる快感。

 恋は盲目、というのと同じで「幸せも盲目」。



 だから、覚者、あるいは沢山の視点で世界を見つめるスペックを持つ者は、世間一般が指す「幸せ」は得られない。

 なぜなら、もうそういう機能が備わてしまっているので、色々分かってしまうのだ。盲目的になれない。どうしても複眼で世界を見、本質に迫ってしまう。

 そしてその本質というのは、ユルフワスピリチュアルが言うようなきれいな言葉で着飾った素晴しいものではない。それに近付くということは、限りなく「絶対零度」に向かっていくかのごとし。

 


 会ったことはないから筆者の推測でしかないが——

 マザーテレサという人物は、おそらく最後まで「幸せ」であっただろうと思う。

 ただその幸せの内容が、一般的なそれとはずいぶん異質なものだったろうと思う。色々見える分、「ただ良い部分にスポットを当て、他を見ないことで得られる幸せ」を得ることは不可能だった。だから彼女が得たのは、相対世界の違いのすべてを受け入れきった境地で、静かに世界を認める覚悟を決めた、腹をくくった上での「幸せ」だった。

 見ない部分がなく、すべてを見てもなお私はどうだ、と言いきれる重みのある「幸せ」を。



 筆者は最近、「私は幸せだ」と思ったことがない。

 それは、単純に「不幸だ」ということではない。家庭もあり、暮らしや仕事も楽しく、それが「幸せでない」というわけではない。

 精神世界的な意味で、単眼ではなくハエのように「複眼」になってしまったので、何かを見ない状態での幸せがもう分からないのだ。だから、言葉上の「幸せ」というものさえもう思考に登らなくなった。幸せについて考えたりすること自体もなくなった。

 


 今の世の流行や、人々が好むものの傾向を見ていると、人類歴史はまだ熟していない。幼い。イエス・キリストも、処刑される時同じことを思ったかもしれない。

 これは、バカにしているのではない。むしろ、それでいい。

 一流のゲームプレイヤーとは、何もすべてをうまくやるだけのことを言わない。いかに飽きず、延ばし延ばし長く遊んでいられるか、ということも一流の技術のうちに入る。そういう意味では、覚者や高いステージに行った者は、逆に残念な人なのかもしれない。

 何かが見えない、知らない、分からないことで幸せなら、それもいいと思う。

 そうやって得る幸せもある。いや、そうやってしか得られない幸せも多い。

 こんな厳しいゲームで頑張って生き残っているんだ。それくらいゆるされてもいいじゃないか。

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