いつかくる自分の番のために

 名作児童文学作品のひとつに、「少女ポリアンナ」がある。

 これはかつてのハウス世界名作劇場では、『愛少女ポリアンナ物語』というタイトルで放映され、人気を博した。また、作品内で主人公が行う「よかった探し」が多くの人の共感を得た。



 主人公は生まれてすぐ母親を失い、牧師である父の手ひとつで育てられてきたが、その父も失う。引き取り手がない中、唯一の親戚であるポリアンナの母親の妹のパレー叔母さんの家で暮らすことになる。

 しかし、家族の反対を押し切り駆け落ち同然で家を出て行った姉を、パレーは恨んでいた。そしてその子を、パレーが歓迎するはずがなかった。見捨てたら人として問題である、という「義務感と道義漢」で仕方なく引き取ったようなものだった。

 しかし、どんな時にも明るく、つらい状況の中であってもその物事の良い側面を見つけていく遊び「よかった探し」をするポリアンナに、次第に心を開いていくようになる——。



 ふさぎ込んでいる人。人生を楽しめない人。自分が世界で一番不幸で、可哀想だと思いこんでいる人——。

 そんな人々を、ポリアンナはどんどん感化していく。

 しかしある日、その「よかった探し」の本家に、最大の試練が訪れる。

 車との交通事故で、足を負傷。命に別状はないが、下半身が不随状態になり、歩くことができなくなる。その時、あの「よかった探し」の教祖的存在の彼女が、悲痛な叫びをあげる。



●できないの。

 いつもみたいに「よかった」と思えることを探そうと頑張ってみるんだけど——

 今まではうまくいっていたのに、このことだけは、このことだけは……

 この「歩けない」ということだけからは、どうやっても「よかった」が見つからないの!



 それを聞いて、黙っていられなかった人たちがいた。それは、かつてポリアンナに感化され、元気をもらった数知れぬ人たちであった。

 身近な知り合いから、ポリアンナ本人が名前すら知らない人物まで、あの喜びを見つけることを教えてくれた恩人自身が喜びを探すことができないでいる、というニュースに胸を痛め、見舞いの品を置いていったり、励ましのメッセージを残していったりした。

 そうした動きの中で、ポリアンナも次第に元気を取り戻していく。



 そして、都会のボストンの町に行けば、ポリアンナに似た症例を治した実績のある医師がいることが分かり、そこに希望を託し治療を受ける。そして、再び歩けるようになる。

 ポリアンナは言う。(結果として歩けるようになった今だから言えるが)歩けなくなってみて、歩けるということがどんなに素晴らしいことかが分かって、本当によかった! と。



 世には、かなりの数のスピリチュアルの指導者がいる。

 どこかの街角で、一定数のお客さんを相手にひっそりと活動している方もいるし、全国にその名前がとどろき、有名人と分類しても過言ではなく、出版に全国講演会に大忙しのスピリチュアルの先生もいる。

 たとえその人が、どのようなレベルで活動していようとも、である。ひとつ、自覚することをオススメしたいことがある。

 これは、筆者自身も肝に銘じていることであるが——



●今、筆者が本書の執筆や動画配信などを通して、皆さんにメッセージをお届けしているのは、いつか来る自分の番、つまり「自分が皆さんに助けていただく番」のためにある。



 日頃、人に喜びの探し方を教え、数知れぬ人を感化するポリアンナでさえ、自力では乗り越えがたい試練に見舞われた。どんなに高名な、人間ができていると思われている先生だって、いつ足元をすくわれるか分かったものではない。

 そういう時にものを言うのが——



●その人がそれまでに築き上げてきたもの

 人間関係

 尽くしてきた誠



 それが、今度は他人を介してあなたを救い出してくれる。

 もちろん、ニュアンスを誤って理解してほしくないが、「いつか助けてもらう時のために、今与えられる番では与えておく」というふうに、「意図して」「狙って」「それを見込んで」 善を行うのではない、というところは重要だ。その流れは単なる結果論にすぎず、気が付いたらそうなっていた、という程度のことであって、決して狙ってするものではない。

 後の利益のためにいいことをしようとするなら、それは「いやらしい」というものである。



 日頃、大勢を前にして気分よく自分の発信をしていると、そういうことを忘れかける指導者も少なくない。

 でも筆者は、持ちつ持たれつの精神を忘れずにいたいし、いつ何時皆さんの励ましや支えが要ることになるか分からない。

 いや、自分が分かっていないだけで、この瞬間でさえ色々な人の思いやご厚意に支えられて、私がこうしていられるのかもしれない。

 マクロ的には、ポリアンナのように大事件が起こった時に、日頃のあなたが世界に与えたものが返ってくることになるが、ミクロ視点では生きているまさにこの瞬間、ものすごい速さで世界に与えているものを受け取っているのかもしれない。



 もちろん、この現象界は複雑なので、与えたそのままが返ってくるという説明は無理があるし、単純に過ぎる。もちろん短期的には、とうてい与えたものと同じとは思えない、納得できないものが返されるように見える場合もある。

 その辺の細かい舞台裏の処理に関して、我々人間キャラは細かく知る必要はない。

 ただ、生きればいい。今を真剣に。

 そして時を、シナリオを信じることだ。

 無心に生きることだ。そうするとその無心が、後の事をきっちり計画してくれる。

 これを意図的に、下心をもってやろうとすると、なぜか無心の時に比べてうまくいきにくい。

 ただ注意が必要なのは、この場合の「無心」とは、一切なにも考えないこと、頭で計画しないことを指すのではない点だ。ただ必要以上の「気負いがない」 状態。

「なんとしても」という、ムダな力みがないというだけ。



 いくら無心がいい、思考はよくないって言ったって——

 やろうと思考で意図しないことは、やっぱり起こりにくいのである。

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