環境からすべてを学ぼうとするな

 またこういうことを言うと年代が知れるが、『スケバン刑事』という古典的名作マンガがある。その中のエピソードで、次のような話がある。



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 画家を目指す、ふたりの若い女性がいた。

 仮に、AとBとしよう。

 Aは家は貧乏だが気立てがよく、かなり絵の才能もあった。

 Bは日本でも屈指の財閥の令嬢で、絵は確かに 「うまい」 が、画家として大成するほどになるには「何かが足りない」という感じ。絵の先生は、そのことをちゃんと見抜いていた。

 必然、先生はAに見込みありとして指導に熱心になり、Bに対してはそれほどでもなくなる。



 わがまま放題生きてきたBには、それが面白くない。

 Bは、姉にこのことを愚痴る。またこの姉というのがとんでもないやつだった。

 姉は、妹のため非人道的行動に出た。

 絵の先生を呼び出し、「妹の絵を認め指導を熱心にしろ。さもないとお前の家族がどうなるか思い知ることになる。それとも、自分の家族を犠牲にするほどお前の愛弟子はかわいいのか? よく考えてみろ」

 この絵の先生を責めるのはちと酷というものだが、次の日からAの絵に対していちいち「色使いが悪い」「そこの線は全然なってない」だのと文句を付けるようになってしまう。

 もちろん、本当にそう思っているわけではなく申し分ない出来なのだが、わざとである。そして、Bの絵を褒めBに熱心に指導するようになる。



 話は残酷にも、それだけでは終わらなかった。

 姉は妹であるBの画家としての成功を完全にするために、Aの描きためた絵を奪い、Bの作品として発表することを考えた。(姉は、やはりBにはAほどの才能はないと分かっているようだ。そのままのBの絵では画家として成功しないと判断したのだから)

 ただ、そんなことをしたら当然抵抗にも遭うし、訴えられる。権力者にはねずみ相手でも、窮鼠猫を噛むの例えもある。ならば、口封じにAには死んでもらおう——。

 幸いにもAに身内も親戚もいない。唯一の肉親だった父親も、数年前に亡くなっている。で、Aは刺客の手により、無残な死を遂げるのだった。



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 ……なんとも残酷な、救いようのない話である。

 この話をした上で考えたいのが、『果たしてAに落ち度はあったのか?』という話である。

 スピリチュアルで少なくない考え方は、「すべては自分に責任がある」とする考え方である。

「鏡の法則」に代表されるような、あなたの目の前で起こるすべてのことは、自分の心の中を映し出す鏡である、という考え方がある。言葉を換えれば「自分の人生に起こる問題の原因は、すべて自分自身の中にある」ということである。

 このお話を聞いて、本当にこの悲劇はAに原因があると言えるか?

 Aがもし死ななかったら、この現実を「自分の中の何が問題だったのか」考えなさい、ということだろうか? もしそんな冷たいやつがいたら、スピリチュアルなんて値打ちのかけらもないな。まるで、事件が起こったら犯人よりも被害者のほうが損をするみたいなことと同じだな。

 どう考えても悪いのはBと、財閥の権力とバックの黒社会を利用した、阿漕あこぎな姉のほうだ。

 この当たり前のことを考えさせず、「悪いのはあなただ。心を探ると何かあるでしょ? すべて現実を生み出しているのはあなたの意識なんだから!」なんて迫ってくる。

 普通の感覚で明らかに悪い相手を責めようとすると、「他人のせいにしてはいけない。それでは人生の主人公になれない。他人に責任を押しつける人生ではなく、自分が取る人生を生きなさい!」と言ってくる。

 これは、一種の洗脳である。



 悪くない人が悪いと言われ、内省するように言われる。

 で、本当に悪いヤツが、責任を取るべき他人が放っておかれる。

 そんな残酷な法則が「鏡の法則」であり「100%自分原因説」である。

 この理屈でいくと、AがBの嫉妬と自分の殺害を生みだした(引き寄せた?)らしい。いったい、どんな乱暴な理屈なんだ!

 これをやせ我慢して受け入れる人がいるなら、それはもう宗教だ。しかも、かなり危なめの。



 今日は、しごく当たり前のことを言う。

 もちろん、細かく個々のケースを見れば単純にはいかないが、場合によっては 『本当に相手だけに非がある』場合もある。被害者には何の落ち度もないことだってある。ただただ理不尽なことが起こった、というだけの現象もある。

 それをわざわざ、すべては自分が生みだしているというおかしな理屈を持ちだしてきて、「あなたでしょ! 何かあるでしょ ?よーく思いだして見なさい。心の中を探ってみなさい!」 と被害者に詰め寄る。

 まるでヤクザと紙一重の警察だ。人によっては、やってないけどひどい尋問から楽になるために「やりました。自分の意識が生んじゃいました!」と自白してしまう人も出てくる。「吐いちゃえ。楽になるぞ。お前が、やったんだろ?」スピリチュアルは、時としてそんなゴリ押し刑事みたいだ。



 すべては、使いようなのだ。使い方ひとつで、良くも悪くもなる。

 だから、「すべて自分に責任がある」という考えそれ自体が悪いというわけではない。その考え方でうまくいくことも、幸せになることもある。

 ただ、使いどころを誤ってはいけない。骨折したのに整形外科に行かず内科に受診するするようなもの。ペットショップに行って『単3電池売ってますか?』と聞くようなもの。

 自分原因説を、ただただ理不尽な不幸が振りかかったケースで使ってはいけない。

 究極視点ではこの世に「罪」というものはないが、あるとすればこのような「可哀想なだけの被害者にあなたにも問題があったんじゃないかと詰め寄る」ことであると思う。

 自分原因説は、当てはめる場合の現実があまりに辛すぎる場合は危険である。人を見て言わないといけない。見誤れば、相手はみるみる精神を病む。

 真理とは、いつ何時誰にでもあてはまるものをいうはずだ。とすれば、鏡の法則と自分原因説は真理ではなく、幸せに生きる上での考え方としての、ひとつの「方便」にすぎない、ということだ。



 スピリチュアル実践者が顔をしかめそうだが、次の言葉を声高らかに言ってみよう!



●悪いのはアイツ!

 私はなーんも悪くない!



 本当に、そういうこともあるのだ。

 みんな真面目すぎるんだ。「あ、自分も悪いな」と素直に思い至るならいいが、そうでない場合でも無理して、重箱の隅を突くように「悪い意識探し」を始める。まるで顕微鏡をのぞき込むような作業だ。

 あと、どんな場合でも、「自分に原因がある」と言っとけば格好いいもんね。何だか、レベルの高い人になったみたいで気分もいいもんね。



 明らかに相手に非がありあなたにはないのに、あなたに問題ありとするスピリチュアルや自己啓発って——


 

「テストで98点だったよ! ママ」 と喜んで答案を見せに来た我が子に——

「まぁ、すごいわね。頑張ったわね!」 と素直に褒めるのではなく——

「あら、この2点の間違いは何?」 という反応を返すようなものである。



 悪くない時に自分に当てはめる「鏡の法則」は、まるでコップに水が半分もある、ではなく半分しかないと見る視点に似ている。あえて物事の悪い側面を頑張って見出そうとしているようで、気持ち悪い。 



 環境から、すべてを学ぼうとしなくていい。

 学びたいことだけ、自分へのメッセージだと思いたいことだけ、採用するだけでいい。生真面目に、すべてから学ぼうとすると疲弊する。

「目に映るすべてのことはメッセージ」とは言うが、すべてではなくどれを採用し、どれを採用しないかを決める権利があなたにあるのだ、ということを忘れ去らないように。

 それを忘れさせようとしてくるのが、まさに「すべて自分の心の投影」とするスピリチュアルなのだ。

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