枯れ木に花は咲くだろうか

 うらのはたけで ぽちがなく

 しょうじきじいさん ほったれば

 大ばん こばんが ザクザク ザクザク



『花咲かじいさん』という日本の昔話がある。

 このお話のテーマをひと言で言うと、『勧善懲悪』。

 描かれるのは、正直じいさん夫婦と意地悪じいさん夫婦との対比である。二組とも行動上は同じことをするのに、意識の在り方の違いのせいか結果は正反対。



 正直じいさんが穴を掘れば金品が出、意地悪爺さんが掘ればゴミばかり。

 腹の立った意地悪じいさんは、ぽちを殺害。

 悲しんだ正直爺さんはぽちの墓を作り、傍らに木を植える。するとぽちが夢に現れて「この木でうすを作って」と伝える。その通りにして餅をついたところ、また財宝がザックザク。

 で、意地悪爺さんが真似をしたら、出てきたのは汚物。またまた腹が立った意地悪爺さんは、斧で臼を割り、薪にして燃やしてしまう。

 正直じいさんはその灰だけを返してもらい、供養しようとする。するとまたぽちが夢に出てきて、その灰を桜の枯れ木にまいてくれ、と頼む。言われた通りにしたところ桜の花が満開になり、たまたまそこを通りかかった大名がそれを見て感動し、正直じいさんに褒美を与える。

 意地悪じいさんが当然真似をするが、桜が咲くどころか大名の目に灰が入り、無礼をとがめられて罰を受ける、というオチ。



 これ、冷静に考えたらひどい話である。同時に、ちょっと現実離れしている。

 正直じいさんのお人よしの度が過ぎるし、意地悪じいさんの意地悪さはちょっと現実離れしている。これほど、失敗から学ばない鈍感すぎる人はいない。でも、それでも行動方針を貫徹するのだから、そこはまぁすごいというか、なかなかできないことというか……って、褒めてどうするんだ?



 さて。この花咲かじいさんのお話に限らず、この世界ではある傾向の話が好まれる。



●ひどい目に遭ったり、理不尽な目にも遭ったりするけれど——

 明日を信じて、希望を持って耐え忍び続けると、いつしかいじめてきた人物や悪人はその報いを受け、信念を貫いたその人は最後に成功し、ハッピーエンドを迎えるという種類の話。



 人は、この手の黄金パターンのお話が大好物。

 映画でも小説でもマンガでも、その多くはこれだと言ってもいい。でも、ここでひとつ考えておきたい。



●あきらめずに、信念を貫き通せば——

 そしてそれが「正しい」ことであれば、絶対に結果は出るか?

 良いものでありさえすれば、あきらめなければ夢は絶対に叶うか?



 売れている世のスピリチュアルや自己啓発の主張で行けば、「叶う」になる。

 当然、人が聞きたいのはこっち系の話だろう。

 希望があるからこそ、生きていける。大丈夫。絶対に道はある。幸せになれる! そう信じるからこそ今を、そして明日を生きようとする活力になる。



 この花咲かじいさんのお話は、決して「正直でいさえすれば、最後にはいいことあるよ!」ということを保証するものではない。正統派スピリチュアリストの嫌う言葉で言えば、この正直じいさんの生き様が報われたのはじいさんの置かれた状況が生み出した独特の状況であり「そのじいさんだからそうなった」という要素が強い。正直に生きても良い現実に転じないケースだって世の中にはある。

 スピリチュアル住人の好きな言葉は「この世界に偶然はない」。高次な視点ではそう言えるだろうが、私たちが軸足を置くこの幻想世界視座では「偶然はある」。もちろんこの場合の偶然とは解釈上の話でしかないが、それを「ある」としておかないと、人生がきつくなる。

 あらゆることに意味があるとすれば、極端な不幸も意味があるとなり、転じて「あなたに必要だった」とまでなりかねない。皆が皆その境地に行ける強さをはじめから持ってなどいない。そう考えると、「たまたまだった」という解釈も時として人の心的負担を軽くする効果が見込める。

 あの事件で犠牲になるのはあなたじゃなきゃ、あなたの子どもじゃなきゃいけなかったんだ、と考えることは時として辛すぎる。



 私の持論では、あきらめなかったからといって、全力で頑張ったからといって夢が絶対叶うという保証はできない。正直に言って、叶うかもしれないし叶わないかもしれない。

 ギャンブルに近い。やれることさえやったら、あとは「賭け」の世界。チップを張ったら、あとはルーレット頼みしかない。

 筆者がこういう世界観を提示すると、まずこういうツッコミが入る。



●すべてが決まっていて、コントロールできないんでしょ。

 必死で頑張ったからって、成功しないかもしれないんでしょ。

 だったら、絶対大丈夫! あきらめなければ夢はかなう!……って信じて頑張るのは、筆者さん視点から見て「愚かな」ことですか?  バカバカしいと思いますか?



 そうは思わない。

 私がもし「究極にはすべてに意味はなく無であり、すべての物事は決まっており、ただそれを観ずることをして、味わって行くだけ」という境地にとどまるなら、悟りというものは無価値である。

 だから私は、ふたつのことを両立することに決めた。



●どこかで「やったからって絶対にうまくいくとは限らない」という視点はありながらも、この世界に生きている以上「絶対やってやる」「できると信じる」という姿勢をもつ。

 ある面、本気で信じて頑張りぬく。



 皆さんは結構生真面目なので、「起きることが起こるので、いくら望んでも無理なことはある」という意識と「やればできる、やる以上は勝ちを取りに行く」という意識は同時に存在できない、と考えている。双方は矛盾すると考えている。どちらかだけしか持てない、と思いこんでいる。

 皮肉を言うが、こここそスピリチュアルお得意のこの理屈を使う時ではないのか?



●あなたがそう思うから、その通りになる。



 筆者は、自然に使い分けている。

 意識の底では、起きることが起こると分かっていて、シナリオは決まっていると思っている。

 でも、体を置くこの世界は幻想ゲーム世界。幻想だけど「起きることに影響を与え、未来を変えることができる」というバーチャルに生きることが可能になっている。

 だから、本気でノセられてみている。私なりの願望を実現し、私なりの幸せをつかもうとしている。

 ヘンな話に聞こえるだろうが、どこかでは「こっちが全力を尽くしても、ダメなこともある」と思っている。うまくいかなった時の割り切り方を心得ている。

 でも主流スピリチュアルは、その辺りを生真面目にも追及する。あなたが意識上完璧なら絶対成功するという前提なので、失敗したら「どこかがダメだったんです。どこかが、あきらめたり疑ったりしたんです。どこかの努力が、信じ方がちょっと足りなかったんです」と言ってくる。

 もうちょっと楽に考えたらいいのに。体育会系の部活はこれだからキツイ。



 だから私は、花咲かじいさんになれると信じている。

 この世に生きる限り、希望を持っている。

 でないと、この世界に生きる価値ってあるか?

 ただ悟っただけなら、非二元に目覚めただけならそんなものは無価値である。

 くうについてささやかなりとも気付きを得たなら、その上で幻想世界で本気で生きる覚悟を固めろ。でないと、ただ現実に諦観するだけの悟りなぞ、邪魔なだけだ。心乱さない、絶対な『平安』など、聞こえはいいがこの世界では持っても楽しくない。

 かといって、この世界で夢を信じる視座だけでも、人によってはうまくいかなかった時の苦痛に耐えられない。だからこそ「うまくいかないこともある」の視座も必要なのだ。



●叶わない希望もあると知ってなお——

 それを承知の上で、同じ生きるなら希望に懸けて、明日を信じて生きる。



 これこそ、ワイルドでカッコイイ生き方だと思うのだが。

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