ゼロを理解しようとするな

 皆さん、「0(ゼロ)」って知ってますか?

 知ってる~! そう答えることでしょう。

 1+0=0 6×0=0、でしょ。つまり「ない」 ってことを表す数字だよね?

 確かにその通りだ。このゼロという数字は非常にありがたく、これがあるから我々は数学を基礎とした科学的恩恵を受けている。

 確かに、ゼロを巧みに使いこなし、今日のような文明を築き上げた人間は、ゼロをうまく利用はしている。ただ、そこには人間が分限をわきまえるべき線引きがある。

 人間は、ゼロを知識として知ったに過ぎない。そして、そのうわべの性質を応用しているに過ぎない。



●人間は、ゼロを知ってはいても使えても、本質を理解はしていない。 



 ゼロを理解している、と言える人がいたら、とても傲慢な人だ。

 傲慢とは、ものを知らないことから、無知から生まれる。実は、ゼロなんてものはより本質を目指した人ほど「そんなもん、この世界ではちゃんと分かるもんじゃない」「分かろうとしすぎたら、おかしくなる」と知っている。

 この二元性相対世界では、「ゼロ」の本質は分かり得ないようになっている。

 例えると、仮に「海外旅行へ行くことが一切できない世界」があったとする。そこで日本に住むあなたは、図鑑や写真雑誌でアメリカの「グランド・キャニオン」を見たとする。

 すご~い!きれい! 雄大! こんなのあるんだね~。

 それで、あなたは「グランドキャニオン」を理解したような錯覚に陥る。

 でもあくまでもあなたは、グランドキャニオンを知識として知ったに過ぎない。実物を見てこそ、その場の空気に触れてこそ「理解した」には近くなる。

 しかしここにはさらに面倒なこの世界の現実があって、グランド・キャニオンに実際に行った人たちの間でも、感想は色々違う。たいていは褒め言葉になるだろうが、中には「怖かった」「もう二度と行かない」という感想を持つ人だっている。

 このように、「人は個々がまったく同じようには目の前の情報を受け取れない」「正味のそれを見る力が、自我を持った人間には備わっていない」ということが、さらに問題をややこしくする。

 人や何かの芸術作品、事象すらも人によって理解の度合いや仕方も違うのだから、宇宙の本質であるゼロを「理解した」なんて、あなたどんだけ尻軽なの? 二元性世界分離キャラの分際で?



 スーパーで食品を買うことがあるだろう。

 箱の裏や包みのどこかに、商品名や原材料が事細かに書いてある。

 小麦・大豆・砂糖・卵……

 当たり前の話だが、そこに入ってる原料しか書いてない。そりゃそうだ。入ってないものまで書いていたら社会は大混乱だ。

 例えば、パウンドケーキやマドレーヌなどのパックされた焼き菓子の裏の原材料欄に、「動物の肉は入っていません」「醤油は入っていません」と書いてあったら?

 入ってないんだったら、ややこしいから何も書くなよ! そう叫びたくなりませんか? つまり、その商品をひとつの世界だとすると、そこには「肉は一切ない」「醤油は一切ない」。今、複雑な思考をできる我々が外側から「肉は入ってないよね」と考えられると言うだけで、その焼き菓子の世界の中では 「ない、という概念すらない」のである。



「ノンアルコールビール」とか「合成保存料・着色料は入っていません」などの表示は例外である。ビールのように、アルコールが入っていることが普通なものに関して、誤解されないために「入ってないよ」とわざわざ言うものであり、後者の例では、入っていると印象がよくないという前提がある中で「大丈夫ですよ~」と安心を促すものであり、先ほどのたとえの揚げ足を取る材料としては適さない。


 

 今日一番言いたいのは、本当のゼロとはそのゼロを考える対象としてとらえられない、ということである。本当にゼロを理解した途端、あなたはゼロを「ゼロ」という名前で対象化し、頭の中で浮かべることはできなくなる。ゼロと同化し、そしてあなたの自我や分離した個としての認識もふっ飛ぶというおまけまでつくが。

 あなたは、他人の顔は見える。だって、自分自身じゃないから、外に眺められる。

 でも、自分自身の顔はどう? 鏡や水面の助けでも借りないと、見れない。

 つまり、ゼロが自分じゃないから(本当に理解するところまでいかないから)、外に数字として把握できる。概念として対象化して考えられる。でも、あなたがゼロ自身になればそれは本当の理解になるが、人間生活への適応性を失う。



 ゼロを数字として扱い、カタカタ計算して暮らしている内は、ゼロなど本当には理解不能。

 ゼロが本当に理解できる時とは人間やめる(一元性に回帰する)時であり、そうなったとたんに「ゼロが分かった」などと考えることすらなくなる、というのが皮肉な所である。

 だからさ。ゼロとか、ほぼ似たように使われる「くう」 とか、考えるのやめな。無駄だから!

 そう言われてもやりたい!って分には、全然OK。だってこの世界には、あらゆるパターン(可能性)を楽しみに来ているんだから。

 スピリチュアルの世界では、どう頑張って背伸びしたからってムリなことを「できる!」とか「これが真実です!」「私は完全に理解しました!」なんて言ってしまうことも多い。

 現実、調子に乗れる人を除いたら、だいぶお疲れの方もいるでしょう。ああいうノリについていけなくなった人もいるでしょう。



 一緒に、休みませんか。

 本質への理解なんて絵に描いたモチは放っておいて——

 今こそ目の前のやりたいことや、やるべきことに意識を割きませんか。

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