言葉にしにくいこと

 これだけ「悟り」っていう言葉も広まり、色々な人が話題にするようになったので『悟りとは何か』に対してその人なりの言葉での説明が、世の中にはごまんとある。

 とある、やはりそういう発信をしている某スピリチュアル系ブログにて、次のようなような説明があった。



●悟りとは、魂の自由

 あらゆる偏ったものの見方から自由になること



 ブログの発信者が、この言葉の裏にどれだけの深い洞察を持っているのか、この言葉を聞いただけでは判断できない。ただ、この言葉だけでは大いに誤解される。

 じゃあ、どういう誤解が起きるか、ひとつそれらしい例を考えてみる。



 例えば、悟ったと言われる人が、時に人間臭いふるまいをすることがある。

 批判に対して、一生懸命答えたり。(好意的な人はそれを「誠実」と見、キライな人は待ってましたとばかりに喜んで飛びつき、「言い訳」「器の小ささ」と見る)

 また、悟り人と言われるような人でも、時としてちょっと不機嫌であったり、人間として理想的と言える振舞いばかりでないこともある。執着に見えることもあるだろうし、嫉妬に見えることもあるだろうし。生きるために悪気なく流れでしていることが「世俗的」とか「金稼ぎ・売名行為」とか言われる。

 そういうのを見て、一般人はどう思うか。仮に、悟りというものの定義が最初に上げたものだったとして——



●何かに反応して、弁解に一生懸命になるのは、魂からの自由なんて程遠い。

 魂からの自由を得たくせに、囚われているようにみえる。固執(執着)しているように見える。また精神的に完全に自由になったんだったら、こういう活動(金銭や利害が絡む活動)はおかしい。

 魂の自由を得たなんて、本当なのか?



 つまり、魂の自由という自由の意味を「完璧に外部の何にもとらわれず、圧力や利害や偏見を無視し、100%ピュアな選択ができること」と捉えているとそうなる。

「あらゆるものの見方からの自由」というものを、「意識の在り方を完全に使いこなせて、絶対にひとつの見方に囚われることがないので、どんな時でもクール。心を乱さない。絶対激高しないし、ましてや他者の批判などしない」ことだと思っていると、「悟った」と言われる人物の言動に???となる。

 まぁ、熱狂的なファンなら最新のプリクラみたいに「美白補正」みたいな機能もあるので、全然気にならないということもある。



 生活しなければならないのは分かるが、精神世界という分野でリーダーに「結局稼がないと生きていけない。そのためには百パーセント心が納得していないことでもやったり従ったりしないといけない」という残酷な現実を見せつけられるのは、皆イヤなのだ。

 芸能界とか経済活動の世界(資本主義・成果主義)だったら、誰もおかしく思わないのに!

 確かに、人生の一時期あらゆることがうまくいき、完全なる魂の自由を手に入れたかのような人もいる。

 自他共に認める成功したスピリチュアル指導者(引き寄せ系に多い)のように、人生うまくいって自己表現が思うようにできていて、調子に乗っている人。気が大きくなっているので、うまくいかない他人に「それはあなたができると信じていないからそうなるのよ」と言う。

 意識が現実化する、という(仮想)真理を盾に取っているので最もらしく聞こえる。でも調子が悪くなったり、それまでのようにはいかなくなった時に同じことが言えるなら言ってみろ、と思う。

 もし、「今の状況は私に問題があったのでこういう結果を引き寄せました。ごめんなさい」と言えたらあっぱれだと思う。筆者は、思想信条は違ってもその人を「尊敬」するだろう。

 でも、たいての人はそうなったら「自分のせいじゃない感」「仕方なく(色々なことのせいで)そうなった感 がすること請け合いである。引き寄せの何の言ってても、都合の悪いこと(どうにも防げない外部からの力があるという事実)に対しては言わないのがこの系統の実践者の卑怯なところである。

 いいことに関しては、自分がこういう意識でいれたので「引き寄せました!」とか喜んで報告するくせに、うまくいかなかったものは黙っておく。

 そういう人は、箪笥のかどに小指をぶつけて痛がった時、「私が引き寄せた。どこかでこうなることを望んだ」と整理するのだろうか? 興味がある。



 話を元に戻すと、「魂の自由」「偏りあるものの見方からの自由」などというものはない。

 あったら、見せてくれ。ものすごい聖人の名前を挙げてきてもムダ。あなたは、その人の1%もちゃんと見ていない。

 覚者・聖人本人さえ、自我視点では「本当の自分」など分かっていない。分かったら、洋画「ルーシー」のように体が消えてなくなる。

 分からないからこそ、それがこの世で肉体という形を取って生きるためのパスポートなのだ。

 本当の覚者なら、「私は完全に自由になった」「すべてのことが理解できた」とは言わない。ってか、言えない。「知らない」ことこそが私たち人間の本質であり、それはちっとも恥ずかしいことではない。

 それを恥ずかしいことにしてしまった犯人が、やたら精神的な高みを目指す「高潔スピリチュアル」である。実際、素晴しことを成し遂げ人間としても上等に見えるので、そうしていない(関心がない)フツーの者たちを恥じ入らせる。



 今から、めっちゃややこしいことを言うが、頑張ってついてくるように。

 真の自由とは何か。本当に「囚われない」とは何か?



 見た目に分かりやすく、完璧に自由な人などいない。

 この世界での人生で、「絶対に何かに囚われない」などない。そういう、分かりやすいこの次元においての「魂の自由・囚われからの自由」はない。

 何を言うか。何かに囚われて生きないことには、お前さん生きていけんぞ? ああ、だから世間から逃げたんだな。大昔の覚者さんたちは。

 でも世間から逃げたって、自分の中こそが「世界」だから、結局具体的な他者から逃げたって同じなのに。ってか、自己の深淵と向き合う分余計他人と関わるより苦しいのに。

 中途半端だと、発狂する。突き抜けると、この世界からは消える。どっちにしても、精神世界の究極的探究はオススメできない。

 とにかく、悟ったと言うくらいの人は何事にも囚われちゃいけない、完全に他者から見て自由でないとおかしい、というのは逆に「おかしい」。



 筆者は、悟りを以下のように定義しよう。

 この世次元(目の前の現実世界)における感情的自由は99.9%あり得ない。

 どんなに悟り顔した人間でも、50%ほども自由になっていない。感情や体験から来るその人なりの偏った見方から自由になどになることはない。覚醒体験をした後でも、人として生きる上でのOSやハードディスク内は悟る前とまったく変わらない。

 だから、現世での振る舞いがどうでも、それは重要ではない。

 要は、この世で囚われても、感情に任せた行動があっても、それをもって「自由じゃない」というのは、人間キャラには厳しすぎる基準だということ。そんな厳しい要求、「誰も解けない問題」みたいで意味がない。



●その囚われたな、っていう思いや感情的になった、というその事実を、認める。

 


 この場合の「認める」は、ちと難しい。

 水槽を覗いている人間の視点。マトリョーシュカのひとつ外側の視点。

 水槽の中の魚、あるいはマトリョーシュカ(小)自身の世界の中では、失敗に落ち込む。やったことを後悔する。失言したり、相手の気持ちを読み損ねたりする。

 でも、水槽の外からそれを包み込む視点は、実にクールである。マトリョーシュカ(大)は、そんなあなたを問答無用で包み込んでくれる。

「いいんだよ。生きるってことは、色々あるさ」ってね。



 だから、私は「筆者さんって、悟りの話を発信する割には、全然覚者らしくないですね」「やること言うこと、全然フツーのおっさんじゃん」とか言われる。

 そうですとも。フツーの四十過ぎのおっさんですとも。それが何か?

 本物の覚者だったら、現実に四十過ぎの男性でも、そうは呼ばれないとでも? 「おっさん」というカテゴリーからは免除されるの? 福山雅治あたりならまぁ、分からなくもない。

 メッチャヘンだな。「フツーのおっさん」が悪口になるということは、覚醒者は何か「特別でないといけない」「すごくないといけない」という偏見があるということだな。

 


 筆者は、自分がおおよそちまたの大覚者や聖人とは違うことは自覚している。

 皆さんも異論のない通り、私が人格的に優秀だとかいうことはない。好き勝手に、感情に正直にものを言う。これって、言い換えると「振り回されている」と言えなくもない。

 覚者のイメージは、「完全自己コントロール」っぽいことである。それは私にはない。でも、これだけはできている。



●そのすべてを、「これが私なんだ」「これでいいんだ。でも、よくないと思ったら変えたらいいだけ。でも、それを他人には強制されない」という、一歩引いた視点から認めることができている。

 受容することができている。



 筆者は、人格や心の中身やレベルがどうの、って話はあまり要らないと思っている。自分の在り方、自分の選択や思いに関してこの瞬間納得して生きているかどうかだけが関心事。

 また、納得していないならしていないなりに 「じゃあどうしたいのか」に意識をむけているか、ということだけ。そこができていたらいい。そこができていないで人格的に高潔でも立派でも、余計に疲れる人生になるだけ。

 金魚すくいで、紙のうすい輪っかで挑む人と同じ。基準というか理想が高いので、それを超える現象がなかなか起きてくれず、幸せ感が薄い。

 その点、バカボンのパパみたく「これでいいのだ!」と笑い飛ばせる人が、分厚い紙の輪っかで挑む『金魚ゲッター』になれる。


 

 平面思考は、誰にでもできる。

 そこに、高さを加えなさい。

 ピラピラに、厚みを持たせなさい。

 自由に関しても、自由の住所はこの世界の外にあり、この世界では図鑑や雑誌で間接的に見れるだけのものだ、と思ったらいい。この世界に(本当の)自由はない。

 だからその人間臭いのが、振り回されて囚われることをゆるせる心こそが、「自由」だと思っていただいても良い。振舞いがまさに「自由そのもの」なんて、絵に描いた餅である。

 人間が胸を張って本当に自分は自由、というなら必ずウソが隠されている。あるいは、その人が不自由を自覚することを無意識的に避けているか。 



●自由はない。

 だが、自由でないことに囚われない自由がある。

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