スピリチュアル・メッセージへの向き合い方
筆者は本書に日々記事を書き加えるにあたって、読者がどう思うかを気にすることはほとんどない。
思いたいように思え、くらいな感じで「こんなこと言って大丈夫かな?」なんて不安はあまりまとわりつかない。さすがにこの道を10年ほどもやっていると、その辺は「心臓に毛が生えた」ような感じがある。
しかし例外もある。本書のような小説投稿サイトやブログ・動画配信なんかだったらその『一国一城の
自分だけなら人気が出ようが出まいが、売れようが売れまいが自分だけにかかってくることなので自己責任の範囲で好きにふるまえたが、本ならば編集者をはじめとする出版社の方々など、色んな人にお世話になるしその人たちの収入にも関わってくることが分かっているからだ。
発売後、本を手にした読者から『店にありました!』『買わせていただきました!』などとメッセージが多数寄せられた。そのことは、手放しでうれしかった。
しかし、次に私の心に覆いかぶさってくるのは「どうだったかな?」ということ。
役に立ったかな? 楽しんでもらえたかな? 日々好き勝手にやる情報発信ではほとんど湧かない、そういう気持ちが新鮮だったことをだいぶたった今でも思い出す。
その本の中で強調したことのひとつに、「すべては二面性で考えよ。ひとつ何かを決めつけたら、その反対もまた真実として生じると心得よ」という内容がある。
「ありのままがいい」という話があったら、別の面では「ありのままでよくない」。
「喜びとワクワクに生きよ」という薦めがあったら、「別に無理して喜ぶ必要も、ワクワクする必要もない。あなたがその瞬間を納得して味わうことさえできるなら、あらゆる感情体験をするために人はいるのだという観点からは最善」ということも言える。もし四六時中、24時間ワクワク喜びだけだという人がいたら、そっちのほうがおかしい。
私は、発売後も自分の本を何度も読み返した。
で、ひとつ「こりゃ私のメッセージの
①世の成功本は、成功した著者が自分が成功した秘訣(と自分で思っているもの)を本や講演会で伝えることで、「私にできたのだからあなたにもできる!」という話をする。しかし、この「私に起こったことはあなたにも起こる」ということは無責任に言えることではない。起こらないこともある。なぜなら皆シナリオが違うから。
一体、何人の人がそのウソに騙されて頑張ってしまっただろうか?
②この本の目的は、発達障がいの方を初め、この実力主義・成果主義の世界の中で社会のお荷物だと感じ、人生ゲームをあきらめかけた方に読んでいただき、そして「私もいけるんじゃないか?」と元気になっていただくところにある。
私の本の中には、この二つの記述が同居している。(注:本文そのままではありません)この二つは、単純に考えたら矛盾している。
誰かがうまくいったことで、あなたもうまくいくとは限らないよと言っておいて、別の箇所では 「賢者テラ(筆者)がこうだったから、あなたも大丈夫。頑張って」 とやっている。批判したい人には、格好の揚げ足取りの材料だろう。
調子のいいやつ! みたいな感じで。
しかし、私は普段からこうも言っている。言葉上は矛盾するが誰に、どんな意図でものを言うかで、表現は変化する。それによって、一見反対の事を言っているような言葉のペアも生みだされてしまう、と。
私にとって、内容の『論理的整合性』に関しては、文章を書く上での守り事としては優先順位が低い。結局、すべての人に向けて当てはまる発信など、そうないのだ。
例えば、先ほどの①であれば、あくまでもターゲットは 「成功本や有名人の言う通りにやっているのに、全然うまくいかないので、自分のやり方に問題があるのか? と悩んでいる人」である。それに当てはまらない人は、ここはスルーしていただいていい箇所である。
そして②であれば、今本当に何かすがるものを探している人、光を求めて闇をさまよっているような状況にある人向け。たとえ正論でも、①を言えますか? 「他人のマネをしたって、うまくいくかどうか怪しいよ。自分でつかむもんだよ」なんて。
余裕と元気のある人や、今頑張っている努力が実らない人に向けて①はいいが、今辛い人には向かない。やはり、大事なのは正しい知識を与えることよりも「励ます」ことであり、それは辛い人においては「正しさ」より優先されるべきだ。
スピリチュアルにおいて論理性・整合性・正しさなんてそれほど重要じゃない。
もっと大事なのは、置かれている状況が違う色々な人に対して「優しいかどうか」である。
色々な立場の人をできるだけ想定し、その皆に「いいんだよ」と言ってあげられる内容になっているかどうか。私の文章がトータルとして俯瞰したら所々矛盾しているそのわけをご理解していただけただろうか。
そんなふうにできるだけ色んなケースを想定して、カバーするメッセージにしようとしているので、メッセージ対象が異なる言葉同士で矛盾と感じられることが起こるのだ。
どうしても、頭のいい人ほど、整合性に注意して読み進めてしまう。
そして、「論理の穴」を突くことに熱心になってしまう。
人間の思考のメモリーは限られている。そんな論理性回路にメモリーを使い過ぎると、肝心の腹で聴く(ハートで聴く)部分を取りこぼしかねない。それでは、非常に読み方として勿体ない。
本の本分でも述べたことであるが、今日もう一度改めて記しておく。
●スピリチュアル・メッセージは頭で(思考理解重視で)聴くな。
心で聴くものである。考えるより、感じるためのものである。
心がどう響いているか、を常に観照する読み方が良い。
前後の脈絡や論理展開の自然・不自然に意識を奪われ過ぎないがよい。
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