私のやってるのスピリチュアルじゃないよね?

 時間があったので、気まぐれに他のいわゆる「スピリチュアルブログ」を無数に眺めてみた。

 ある人のを読んだら、その人とつながっている(紹介されている)別ブログに行ってみる。またそこで別の繋がっているブログにも行ってみる……まぁ、スピリチュアルブログサーフィン、とでも言おうか。

 かつての笑っていいとも! のテレホンショッキングみたいに、どんどん繋がっていく。で、気付いてみたら最初の地点からは「おお、思えば遠くへ来たもんだ~」と思うくらい、名のあるものだけでなくフツーのスピリチュアル実践者のやっているブログまで、幅広く眺めることができた。



 そこで驚いたのは、まぁ色々な考え方があるということ。

 真剣にやっている人や、自分の境地に自信と確信を持っている人からしたら『いいえ、考え方、などではありません。これが宇宙の真実です!』と言うかもしれない。

 それでもやっぱり私は、「考え方」だと言おう。

 だって、エゴ(自我)を持った人間風情が、「私は」という主語をもって「分かりました」とか「悟りました」とか言うんでしょ? 筆者はこの「自我の主観」というやつは基本的に信頼していない。

 誤解のないように言い直すと、決して自我視点がくだらないとかダメだというのではない。それがないと生きられないので、感謝している。ただ——



●他人に押しつけてまで、何かを絶対として教えたりすすめたりする材料としては、自我が自信を持った内容や自我が確信した内容を採用しない。



 筆者は、そういう姿勢で生きている。

 だから、本書の特徴として「ここには真理は書いてない」「筆者が好き放題言うだけの場所になっている」ということを言い続けている。だったら、私がここでやっているのは、いわゆる一般的に「スピリチュアル」と呼ばれているものとは違うんじゃないか? と思った。

 確かに精神世界というものは、目に見えない世界を主に扱うため、科学のようにはっきりくっきり証明したりできない。だから限界はあるにせよ、一応その発信者が自分なりに獲得した「真実」を元にして、発信したり良い影響を人や世に与えようとしたり、共振できる仲間を増やそうとするものであるはずである。

 私は、自分の言っていることを最初から「真理ではない」 とか「信じたいものを最終信じたらよく、別に私のじゃなくても全然OKですよ」と前提として言っているスピリチュアルをあまり見ない。特に悟り系のスピリチュアルなら、その内容が「合ってるか合ってないか実は分からん」みたいな曖昧なものなら困ってしまうだろう。真実だ、と思うからこそ真剣にできるのがスピリチュアルだろうし。



 だから、スピリチュアルというものである以上、その発信が発信者なりに真実だと捉えており、かつその内容に自信を持っているというのは宿命であり、避けがたい。

 でも思うのだ。その真理を捉えているあなたは誰? って。主観でしかものを見れない、人間キャラでしょ?って。そいつが捉えた真理って、どれほどのもの?って。

 私は本書で繰り返し「覚醒体験(自我消失体験)」をしたと言ってきた。

 それは、当事者である私としては絶対に真実だと思っている。宇宙の本質を見たと(私は)思っている。でも、その思っているのはやっぱり「私」という、人間としての知識や経験や感覚をベースとした認識ソフト(OS)が元なのだ。

 興奮状態から、カッカした熱からさめて落ち着いてみると、その体験が絶対に真実だったとか宇宙の本質を見たとか、自分で思っておく分にはいいが「これが本当なのに、なんでみんな分かんないかな~」なんて人にそれを分かることを要求するのは行きすぎだと自覚した。



 私は他スピリチュアルに興味がなく、普段情報収集をゼンゼンしないし、横のつながりも薄いせいもあり、今回の経験でへぇ~と改めて知る内容も多かった。

 色々読んだおかげで分かったこと。私がこれまで言ったりしてきたことは、ある種の人たちからしたら『ノーマインド系』という言葉で言われるようだ。自分の知らないところで、そんな名称で分類されているとは知らなかった。

 要は、思考を捨ててハート(魂の声)に従え、みたいな話のことだろうか。ワンネスという単語やおおいなるひとつ、という存在だけが実在で、あとは分離という幻想だとか。ジャッジをするな、問題は問題と思うから問題となる。すべては、意識がどう捉えるかである、とか。

 私もちゃんと調べたわけではないが、おそらくその辺の内容を指して言うのだろう。ノーマインド系、という呼び方は、どちらかというと「蔑称」な感じがする。一般的な悟り系スピリチュアルに疑問を抱く方々がこちらを呼ぶ時に使われることが多いみたいなので。私の気のせいならご容赦を。

 


 私は、スピリチュアル関連ブログをサーフィンをしてみることで、世には実に色々な立場があると改めて知った。

 因果というものを大切にする人。あるいはカルマというものを重要視(いや、その人にしたらそういうのが絶対にあるんだろう)する人たちには、どうもノーマインド系は評判が悪い。確かに、こちらが主に主張することは彼らの理屈にしたら「甘い」 し「調子が良すぎる」のだろう。

 成熟していない魂が分からないのを良いことに、彼らを食い物にしているえせスピリチュアルも多い、と彼らは指摘する。いや、筆者としては反論できない。ある面その通りかもしれない。



 筆者の主張する内容がこの数年の間に変わってきたのも、自分が「ノーマインド系」に当たるということを知らなかったのでその反省と言うわけではないが、「悟りがどうの、って言ったって、意識がすべてで捉え方で何とでもなるって言ったって、そんな現実ばかりでもない。結局自覚できる部分の意識に関係なくどんなことでも起こるし、結局その中で生きていくしかない。瞬間瞬間をベタに、真剣に生きていくしかない」 と思ったから。

 だから私は、途中から真理とかどうでもよくなった。

 むしろ、そういう議論に嫌気がさした。



 私も、時々ではあるがどこぞのスピリチュアルを批判することはある。

 そして今回眺めただけでも、私が言う「究極の根源は絶対無」であるということに否定的な立場を取る人たちもいた。「起きることは決まっている」という私の立場に反対の者も多いようだ。

 カルマはあると思うからあり、ないと思うとなくなる、という理屈は、それが真剣にあるとする人からしたら「本当はあるのに、ないとか調子のいいことを言って人の歓心を買って、安心させて金儲けをしている、とんでもない存在」になる。カルマ論者からしたら、あるのにないと言って現実逃避させるのだから、当然こっちは詐欺師だろう。

 どのスピリチュアルブログも、その人なりに真剣であることが分かった。

 その人なりの全存在を懸けて、命を懸けているレベルのものもいくつもあった。

 確かに、それぞれの主張だけ見れば互いに正反対であったり、相容れないものも多い。ほんま、こう確信したわ。



●スピリチュアルなど、この世界では統一されることはない。

 考え方の違うスピリチュアルを、個性が違う各々で命がけでやり続ける状態が、世代を超えて遺志を継いで、永遠にめぐり続ける。だから、スピリチュアルな内容自体は統一され得ないが、「それぞれが尊重され、人様に迷惑かけないかぎり自由が守られたらええやん」という姿勢をそれぞれがもつことで、「違いをそのままとした平和協定」は結べる。



 ただやっぱり、少数は「これこそが真実だから、皆知るべき!」とやるやつはどの時代にも絶対出てくるので、限界(課題)は残るだろう。そりゃ当然だ。だってこの世界はゲーム世界だもの。クリア課題が常にあり続けなくてどうする?

 ……とここまで考えて、私がやっている発信活動の意味って何だろうと考えた。真実を広めること? 悟った立場から皆に教えること? 違う。

 自分の視点からは間違ったことを言ってるものを正すこと? 無くすこと? それも違う。



●私のやりたいことって、結局『応援』なんだよな。



 そうだ。一番大事なのは、正しい間違いではない。(でも、一生懸命やっているスピリチュアルや宗教ほど正しいか間違いかは重要だと言うだろうことも承知しているが、その上であえて言わせてもらう)

 今という一期一会の瞬間において、その人を勇気付け、慰めてあげられるかどうか。なぜなら、真実や正論が今のその人を救わない場合もあるから。

 多少、一般的な理解や常識から外れていても、人が闇の淵から立ち上がれる内容なら、それでいい。その刹那刹那を、前に向いて歩いて行けたらそれでいい。

 私の文章は正しいことを教えるためでなく、ある状況下にある人を励ますためのもの。一時の「受容」を与えるもの。

 もちろん、失敗を失敗でないとか、悪いことをしたのにそれは悪いことではないとか起きることが起こったからあなたは何も悪くないとか、そういうことではない。現実認識に即して、悪いことは悪いし失敗は失敗。でも、相手という存在は抱きしめることが大事。

 それを第一の目的としているので、本書の記事を一貫性のあるものとして連続で読むと、所々「矛盾」と感じられるところも出てくるはずだ。



 戦争って、自分たちにも守らなければならない国が、家族が、愛する人がいるのと同じように相手方にも当然、彼ら自身の子どもや愛する人や育ってきた祖国の大地があるわけで。

 そう考えたら、本当にバカバカしくなる。だから、今回私も色々な考え方のスピリチュアルブログを読んで、思った。

 ……もうさ、主張が真っ向違っても、それぞれでうまくやろうや!

 筆者にも、家族と子ともがいる。

 正直、読んでて気に入らない、こんなん要らん! と個人的に思うイヤなスピリチュアルブログもあった。でも、その人にも人生があり、子どもや配偶者がいたりする。何より、その人なりに真剣である。

 彼らの幸せも、私の家族の幸せも大事なのだ。



●相手にもあなたと同じように、守るべき大事なものがあるということ。

 ただその一点だけをもって、互いに認め合わないか?



 限界のあることは承知だ。

 スピリチュアルというものの性質上、本屋さんに全然内容の違う本が当たり前に並んでいるような感じで全部がほんわか存在できない。どうしても、どれが正しいか、どれが真実を言い当てているかという話になりがちで、性質上それは責められない。

 でも、そういう追求から逃れられない運命でも、心の片隅に置いておいてほしい。

 発信者は、読者の応援団であれ。それぞれが、それぞれの得意なやり方で、得意な形でやればいい。

 そうは言っても、もちろん行き過ぎや過度なウソ、反社会的な領域まで行ってはいけない。その範囲内であれば、それぞれの主張が違っても共存できるはずである。



 イヤなやつを見たら——

 その人にも親があり、家族があり、子どもがいたりすると考えたらいい。(笑)

 単純な発想法テクニックだが、使ってみられたらよろし。

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