風林火山

『風林火山』という有名な言葉がある。

 一般的に、戦国武将の武田信玄と結びついて考えられることが多い。しかし一説によると、それは史実としては実に曖昧で、後世の創作である可能性もある。

 ショックだが、武田信玄と風林火山の旗は関係ない可能性もゼロではない、とのこと。もともとこの風林火山という言葉は兵法で有名な「孫子」のものである。



●其のはやきこと風の如く

 其のしずかなること林の如く

 侵掠しんりゃくすること火の如く

 動かざること山の如し



 本当はもっと長い文章なのだが、孫子の文書を所々切り取ったり省略したりしているのが有名なこの部分。

 まぁ、だいたいの意味としては——



●移動する時はキビキビと、はよせい!

 敵陣近くに陣を取っても悟られないほどに、静かにしとき!

 同じ攻撃するなら、ダラダラせんとワッと火みたいな勢いで元気よく!

 敵の奇策とかフェイントとかあっても動揺せんように、どっしり構えとき!



 これ、一言に縮めると『臨機応変にやり!』ということ。

 その時々の状況に即した動きを取りな。それを、パターンに分けて細かく言っただけ。しかし、ここであるひとつの重要な事実に直面する。



●単にこの言葉を知っているだけでは、何の価値もない。



 例えば、ここに時価数億のストラディバリウスという名品ヴァイオリンがあったっとして。ヴァイオリンをまったく弾けない人が所持していて、何か値打ちはあるか?

 もちろん、カネになる代物ではあるし、所持しているだけですごいし、自慢にはなる。また、美術品のように目で鑑賞するのもアリだ。

 でも、やはり弾けてこそ、その最大の価値を引き出せる。持つことに真の意味が生じる。高価なスポーツ用品だけ所持していても、からっきしできないなら意味がないし、外国語の本を持っていてもその言葉を分からいなら単に持っているだけ、である。



 それと同じように、「風林火山」という言葉だけ知っていても、状況に応じて柔軟にものの見方を変える力を持たない者だと、それは死に言葉である。だって、実行できないからである。ただ知ってることで頭のハードディスク容量をむだに食っているだけで、役に立ってない。

 世の中には「知は力」なんていう言葉があり、何事も知らないよりは知ってる方が得、みたいな感覚が蔓延しているので、この世にはやたら「ムダな知りたがり」が多い。スピリチュアルでも、やはりそういうムードは蔓延していて……魂が欲する、流れに従ってたどり着いたというよりも、知的好奇心を満足させるために知りたがる人が多い。さて、ここからまたまた人から嫌われそうな一言を言うが——



●意識の中で知的好奇心の占める部分が多い人は、魂が若い(幼い)。



 これは悪口はではない。観察から導き出せる単なる「そうであるだけ」のことである。小学生のことを小学生と言って悪口にはならないのと同じだ。

 ここでムッとする人は、私の言葉を次の視点で見ている。



●魂の内命性に従った流れで、対価を払う覚悟で「知ろうとすること」

 ただ野次馬精神や興味本位で、軽い気持ちで「知りたがること」

 このふたつの「知りたがる」を区別できていない。



 もちろん、天の視点ではすべてはただあるがままにあり、その価値は等しく完全である。しかし、ここは架空だろうが幻想だろうが、一定の価値判断基準やルールが存在する世界。その意味で優劣はある。

 天の視点では、もちろん人にレベル付けをすることは失礼である。でも、幻想でも評価というものはあり、それを無視してはこのゲームで勝ち上がれない。

 その背に腹を変えられない事実がある時に、やはり気分悪くても認めていただくしかない。魂の旅が長くなってくると、そういう成熟した魂は若い者ほどに「問い」を乱発しなくなる。

 一年に一回あるかないか。それかずっとない人もいるだろう。筆者がそうだ。

「次の電車何時だっけ?」とか「今日晩飯なに?」とかいう問いは圏外。そういうのは、「問い」とは言わない。ここで扱っているのは、自分の内的成長のためになると思って求める「問い」のことである。



 最近は、悟りなどという言葉は私にはどうでもよくなってきたが、まぁそういうものがあるとして。「明日の天気は?」という性質のものを除いたすべての「問い」が止むことが悟りである。

 こう言うと、悟った人は「すべてを知っているとでも言うのか?」という疑問を持たれそうだが、そうではない。覚者でも、知らないことは多い。ただ——



●知ってようが知らるまいが、どうでもいい。

 そのことが、自分自身の価値を左右しないと知っているし、知ることへの焦りがない。魂が欲すれば自然に知ろうとするし、心が動かなければ放っておく。



 筆者とていちゲームキャラに過ぎないので、世界には知らないことも多い。

「気付き」においても、もっと奥の深い世界があるのだろう。でも今の自分に分かっているのは、目の前の現実に真摯に取り組み感じることを感じていたら、そしてさらにそこで自己肯定ができていたら、知る必要な事柄が仮にあるとしても、すべてその自然な流れの中で得られるということ。

 結果必要なものは得られるという信頼があるので、いちいち自我の意志力で 「知ろう」と気張ることはない。逆に、そう力む方が遠回りなことも知っている。



 風林火山、という言葉を知っていて意味がある状態とは。生かせる状態とは——



●水のような人。



 水は、どんな複雑な形の容器に入れようが、変幻自在にその容器の形に変わる。

 同じように、人の心が何かへのこだわりや固定概念を捨て、その状況に応じて柔軟にものの考え方や感じ方を変えることができるなら。触れている世界に対して受容という姿勢を貫くことができたなら、それこそ風にもなり林にもなり、火にも山にもなれる人である。

 宗教の世界では「信仰」とかいう言葉があり、世にも「信念」という言葉がある。これらは常識的によいものとされ、何が変わっても変わらない軸を持つのが大事とされるが、このことが広い範囲で捉えられすぎ、ただの頑固やこだわりにすぎないものまで信念だというふうに過大評価する弊害も起こってきた。

 筆者にすれば、絶対に変えないほうがいい思いなどそうはない。むしろ、変えないことで起こるトラブルのほうが多い。



 あなたが止まっていると、動いている物体は動いて見える。当たり前だ。

 あなたが動いている対象をじっくり観察したい時。あなたが止まっていては、動いている相手は観察しにくいし、いずれあなたの見えない遠くへ移動してしまう。

 だったらどうする? 単純なことだが——



●相手の動きに合わせてあなたも同じように動けば、相手は止まって見える。



 同じスピードで走れば、二者は互いが止まって見える。

 だから、この世界で見えている世界から何か学びたかったら、動くことだ。相手に合わせて、自分も水のように心を変えることだ。

 決して、言いなりになるとか相手の機嫌を取る、という話ではない。ただ、あなたが無心となり状況と一体化すれば、水が流れるように自然に変化できる。

 変化しようとしてする変化ではなく、気付いたらできている結果としてだけの「変化」。そのような境地になれば、あなたは「落ち着き」を武器にできる。

 それは、火のように責めていても情熱にカッカしていても、どこかにある「落ち着き」。世に言う本物の「信仰」というのは、この落ち着きのことを指すのではないかと考える。

 ただ、何かの信仰対象を信じ、何があってもそれを曲げないという程度のことではない。気持ちを変えない、などという意識レベルは幼い。

 変化すべきところ、柔軟にいくべきポイントをわきまえ、その行動の中心の中に「落ち着き」があることが大事。単純に何かの思いを貫き続けることがいいことだ、という思い込みは捨てよう。

 信念を貫き通せる人よりも、必要ならばそれすら変えられる人の方が強い。

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