Q&Aのコーナー第六十七回「答えたくない質問とは」


 Q.


「起きることはすべて決まっている」と言われますが、それは現象として起きることだけが決まっていて、それを体験して色々感じたり思ったりする部分は自由だということでしょうか。それとも、その思うことや感じることまですべて決まっているということでしょうか?


 A.


 答えたくありません。



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 答えたくない、とは言ったが若気の至りで(?)過去にしゃべっている。本書の 膨大な過去記事をしらみ潰しに読んでみれば、どこかに書いてあるように思う。動画配信などでは、単発的にどこかでそういう話もしたはず。

 でも、今の筆者としては、答えはあってもそうほいほいと答えたくないのだ。

 これは、この世界へ来た一番の目的を果たすうえで、要らぬ知識だ。

 要らぬと言うだけでは済まない。下手に聞くと、その人のためにならない。今の世の大多数は、その知恵の重さをちゃんと分かって聞けるレベルにない。

 皮肉な話だが、そのレベルになるとこんな質問をしようとは思わないだろう。これは、この幻想世界に生きる上での最大の皮肉である。



 大金を害にならず使いこなせる精神レベルにない時は、お金がやたらに欲しい。

 でもそのレベルに達すると、とたんにがっつくほどには欲しくなくなるのだから不思議だ。

 執着に囚われているレベルでは、執着を手放そうと頑張る。しかし囚われないレベルでは、執着ということ自体考えない。どうでもいい。

 要は、得ていないから欲しいのである。得てしまえば(その境地に達せば)その瞬間、あれほど欲しかったそれはどうでもよくなる。



 この世界で、知識にしろ物質にしろ「自分にない(と思う)ものを求めずにはいられない」のが人間のさがなので、しょうがない部分もある。でも、ものごとには順序というものがある。エチケット、つまり礼儀というものがある。

 例えばここに、茶道の家元(名人。極めた大家)がいるとする。そこへ、ちょっとチャラい女子高生がズカズカ歩み寄って来て、こう言ったとしたら?



●あのさぁ、あたしお茶ってちょっとあこがれるんだよね。

 なんかさぁ、できたらマジカッコイイ、って感じだしぃ。

 オバサン、なんか先生なんだって? だったらさぁ、ちょちょっと教えてくんね?

 一番おいしいとこってかさ、要点だけ教えてくれればいいからさ。



 家元は彼女の願いに応えたい、と思うだろうか?

 ここでこの女の子に親切に教える先生がいたら、人間としてはいい人かもしれないが、心はプロじゃない。私は、匠(たくみ)としては尊敬できない。

 無視するか、叱るか。または「そういう心構えでは、教えることはできません」と伝えるのが長い目で見て一番彼女のためになる。

 もちろんそれは、意地悪ではない。「道」を伝え伝えられる関係において、なぁなぁは毒である。



 茶の心の分からない人が、茶器(茶道の道具)をぞんざいに扱っているのを見たら、プロは悲しむだろう。だって、その道具に宿すべき心を知っているからである。

 プロのテニスプレイヤーが、初心者や遊びでやっているような人にラケットをぞんざいに扱われたり、だれた無茶苦茶な素振りでテキトーに打ち合っていたら、悲しいだろう。

 もちろん、真剣にやる道にその人たちが踏み込んでこなければ、茶道やテニスをどう思われようが、知ったことではない。だが、「教えてくれ」とか「ちゃんとやれるようになりたい」とか言ってきたなら、話は違ってくる。

 郷に入らば、郷に従ってもらわねばならない。プロと同じ内容を手にするなら、同じ魂の軌跡を経なければならない。

 個性がそれぞれあるのでまったく同じ経験にはならないかもしれないが、受ける苦労の総量や費やすエネルギー量においては、そう変わりないものを要求されるはずである。

 ある程度教わるというだけでなく、相手が「弟子になりたい」と言ってきたり「最終奥義を教わりたい」などと言ってきたら、そこには「命」が要求される。大げさではなく生きるか死ぬかの真剣さが要求される。



 今回冒頭に紹介した質問は、会ったこともない、交流したこともない方からぶしつけに送られてきた。その後も筆者の返答や反応も待たず空気も読まず、長文を数回にわたって送り付けてきた。

 スピリチュアルをかじっている人に多いが、愛とか受け入れとかいう言葉が飛び交う世界なので、スピリチュアル指導者は聞けば(タダで)何でも答えてくれる、親切にしてくれるものと思うらしい。なぜなら、高名な先生は寛容であり「愛がある」と思っているから!

 人によっては、こっちが応じて当然と思っている節もある。ま、「スピリチュアル(あるいは宗教)でお金を稼いではいけない」みたいなことすらまだ言う人もいるくらいだから、不思議はないか。

 この質問者さんは、自覚してないだろうがものすごく重大すぎる質問を、しゃらっと「今日何曜日だっけ?」程度のノリで聞いてきたわけだ。



「男はつらいよ」という映画で、主人公の寅さんは旅先である陶芸家と知り合う。

 意気投合して、友達になる。別れる時、「餞別だ」と言って茶碗をもらう。

 寅さんはその値打ちを知らず、そのへんの食器屋で売られているようなものと思って、空中に放り投げてキャッチして遊ぶ。それを見たある「目利き」が叫ぶ。

『ああっ、あれは~先生の作品! ひと椀300万円が空中を……』

 そう叫んで卒倒する。


 

 筆者が質問の答えを教えても、この質問者はきっと「へ~そうなんですね」と言って終わりだろう。大した感慨もなく。

 きっとその人の中では「トリビア的な知的満足」の域を出ず、もう数分後には晩飯のことか次の予定のことを考えるだろう。しかしその答えの重みを知る筆者としては、その扱いは悲しすぎるし、そんなの与える意味がない。

 スピリチュアルには、内容において大きく二種類ある。



①いきなり覚悟なく聞いても、問題のないメッセージ。浅く広くの大衆向け。


②相応の成熟と理解度と精神的強度がないと、聞かないほうがいい内容。師弟関係向け限定。かなりの代価を払うことを覚悟しなければならない。



 よく、「辛い時にスピリチュアルを知って救われた」という人がいる。

 もしスピリチュアルが全部 「覚悟がないと聞けないもの」だったら、こんなことは起こらない。

 自分がダメな時、力が出ない時に聞いても心にしみわたり、癒しがあったわけだから、そういう「傷付いた人を癒すメッセージ」というのは実際あり、それは聞くための条件は要らない。気軽に聞ける。

 ただ、悟り系のディープな話になっていくと、そうもいかなくなる。聞き方を間違えると、薬にならないどころかかえって毒になるものもある。

 今回の質問の内容は、見事に「後者」のカテゴリーに入る。

 師は、弟子に聞く準備が整っていなければ、たとえかわいい弟子でも奥義は教えない。時でない時に教えないのは意地悪ではなく愛。時でないのに聞かれたら教えるのは、表面上は優しさであり愛だが、実は相手のことをさほど大事には思っていないからできる芸当。



 だから今回筆者は、この質問に対して沈黙を守ろう。

(それじゃQ&Aのコーナーにならないじゃないですか! というツッコミはナシで)

 もしあなたが私に質問したくなったら、簡単に聞く前に考えてほしい。

『それを知ってどうする?』と。

 知ったからどうなるのだ?ということ。

 それを考えてもなお、「意味がある」 と思えるなら、質問するがよかろう。

 ただし、結果は保証しない。

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