Q&Aのコーナー第六十六回「絶対は絶対ない、って成り立つ?」
Q.絶対は絶対ない、っていうのは成り立つのでしょうか?
A. ふたつの答えがあります。
この世界を基準としたら、成り立つ。
根源性(我々のルーツ・一元性)までを含めた世界観だと成り立たない。
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一応、筆者に来た質問文をそのまま載せてみた。
この質問は、非常にやっかいだ。どうやっかいなのか、以下の私の思索を読んでいただきたい。
絶対は絶対ない、というのをいきなり考えるよりもまず『絶対』というものがあるかどうかを考えるほうがいいように思うので、そこから始める。
この世界、つまり私たちが身を置いている「ここ」は、相対性の世界である。
必ずペアとなる二つの対の概念(陰陽)の間を、一定せずあらゆる細かいパターンで変化する。仏教で言う『諸行無常・万物流転』である。
この世界は、「絶対」とは関係ない。というか、関係が持てない。それどころか、この世界を楽しむ上で必要のない代物である。
私たちが「それ絶対?」とか「絶対~だよね!」という話をする時、それは「絶対というものがある」んじゃなくて、絶対という概念のおもちゃで遊んでいるに過ぎないのである。絶対という言葉を使うときは「それくらい本気だ」ということを匂わせるためであって、厳密に絶対かなんて誰も気にしていない。
我々は、この次元にはない「絶対」から、絶対という概念上のおもちゃを与えられている。そのおもちゃで無邪気に遊んでいるうちはいいが、それをおもちゃじゃないと思ってしまったり、真剣に考えすぎたりしたら、ややこしいことになる。
●絶対はあるかないか、を一言で答えるわけにはいかない。
どのレベルで答えるかによるからだ。
この世界レベルで言うなら、「ない」。
あるように見える「絶対」は、おもちゃに過ぎない。
本当の絶対は、我々二元性の存在の手の届かないところにある。
そしてもうひとつの観点——悟り系スピリチュアルで言う『
相対性を超えた一元性(ワンネスとか、二つや三つを前提としないひとつ)の性質をあえて言葉にするなら、「絶対」という言葉を持ちだすのは間違いではない。
完全であり、絶対。それが究極の「あちらさん」であろう。
我々は本来あちらには由来するものの、でも今は「分離した幻想」であるから。すべてを生む元となったあちらは、こちら側の「相対」に対比して「絶対」だと言えなくもない。
でも、あちらが絶対で完全だとすると、どうしても解決できない矛盾がある。
何かの存在が「完全」であり「絶対」である時、もうその存在は何かをしなくていい。完全で絶対な存在が「何かを追加でした」瞬間に、アウトである。完全・絶対神話が崩壊する。
百歩譲って、仮に完全な存在が「何かをすることができた」としよう。完全で絶対な存在が何かをしたら、属性としてその何かも「完全・絶対」を帯びる。
でも、我々の住んでいるこの世界を見てみなさい。ど~こ~が~完全? 絶対?
(この状態自体がそもそも完全であり、完全でないと捉えているのは私たちの自我に過ぎないという議論にしてしまったら、もはやスピリチュアルは要らなくなるね!)
一元性が完全かつ絶対の「無」であったなら、そんな存在が大元なのに、何でこんな世界が生まれた? 空が完全・絶対なゼロなら、一体誰が「この世界を作ろう」とした?
何かをしよう、として実行できるのは、自他の分離が成立する世界である。「ある主体」が何かを心で「意図」し、その意図の青写真をもとに、実現するための工事を始める。
ここには順番というものが存在できる。(作ろう、という発想が出てくる → 具体的に詰める → 実際に作る) しかも、始まりから行動の結果がでるまでに時間の経過が絶対必要となるため、「時間性」という概念すら追加で絡んでくる。
覚者とかスピリチュアルメッセンジャーの
変化のない世界の事で、完全だから「何も起こらないからヒマすぎる」。ゆえにこの世を称して「神の遊戯場」だと言うことがある。
神(完全・絶対な何か)が遊ぶ? 「完全」には、「絶対」には自我があるのか? 自我があり、意図があるということは何かを「選択できる」ということ?
何度も言うが、選択という行為ができるためには「分離」が前提となる。つまり、選択できる自分と選択される他の対象。
筆者は、私見に過ぎないことを承知の上でそれでもあえて言うと、「
(見てきたとは言うが、それは皆さんに文章で伝える上でこう言うしかしょうがないからである。自他の分離がない世界だったので、「自」がない。したがって「体験」 とは言えない。でも明らかに、私の内側にその出来事の残滓がハッキリと残っている。)
その経験から言うと、
あんなのが、何かを生みだしたり、しようとするとは思いにくい。ってか、何かを「しようとする」とかそういう次元にはいない。その究極の絶対が動かないんだったら、実際に作られて在るこの世界をどう説明する?
我々がマリオというゲームキャラでいる間には絶対に解けない謎が、これである。
これは私見だが、絶対虚無の
そう考えたって、それでも「完全だから何もしないはずの
さぁ皆さん、頭が痛くなってきましたか?
ここまで思索した時に、ひとつこう言いたい衝動に駆られてくる。
この次元で、我々の認識力の範囲で考えても、意味ないんじゃないか?
この次元と、時間も順番も自他もない次元では、おそらく「認識や発想の流儀」が違うのではないか。その違う異世界の話を、こちらの次元流儀の考え方や情報処理の仕方で分析していは、いつまでったても的外れなままでは?
もう、考えれば考えるほど、「絶対があるかないか」なんて分からない。
この世界を生んだ存在が「絶対」で「完全」とは考えにくい。してみると、「絶対」なんてのは、こちらからはもっと手の届かない遠い存在なのでは……
我々が、海外の有名俳優に映像でしか会えないようなものである。
実際に会う、普通はそんなヒマも機会もカネもコネもない。
普通、この世界に生きていて
してみると、私の覚醒体験も、「
●覚醒体験って、もしかしてその多くは「間接体験」ではないのか。
正味だったらキツすぎて、耐えられない。
まぁ、向こう側のご厚意だな。
二元性の幻想キャラには、原液ではなく薄めたものしか受け止められない。
だから、「こんな世界もあるでよ~」って感じで、見せてもらえた。
まぁ、考え方のひとつである。ヒマつぶしの考え事程度に聞いてほしい。
ここまで考えて、結局行き着くのは——考えないほうがいい、というもの。だって、ムダなんだもん。
ムダだが、考える自由はあるので、やりたいのなら止めない。
でも、有限なこの世界でめいいっぱい楽しみ尽くすのには、そんなこと悩んでたら時間のムダだと思う。もっと、やることあるでしょう。
忙しいはずだよ? 多分あなたオカネが有り余ってるというわけじゃないだろうし。やることや考えなきゃいけないことも色々あるだろうし。
当たり前のように、生きるしかない。
マリオが画面の外のプレイヤーの気持ちや事情を考えても、絶対に分かりようがない。だからマリオにできる最善のことは、自分の「現実」に向き合い、やるように奨励されていること(ピーチ姫を救うこと)を、一生懸命やることである。
「オレは画素の集まりで、幻想なのか?」と悩んで立ち止まられたら、何も進まない。
では、最後に「絶対は絶対ないは成り立つか」について。
この二元性世界に絶対は存在しない。なので、絶対は絶対ない、は成り立つ。
筆者さん、この世界に絶対はない、って言ったじゃん! なのに絶対……ないって言っちゃってる! そんな意地悪なツッコミをする人がいるかもしれない。
日本語の文法が分かる人は大丈夫だと思うが、絶対というものがないんだから、そこから論理展開して「絶対は絶対ない」というのは成り立つ。
ただし、この二元性幻想世界限定である。一元性の世界まで話を広げると、そこには「絶対がある」。そこまで視点を高くして初めて絶対というものがある次元になるが、そんな話は今生きている我らにはな~んも意味がありましぇ~ん!
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