未来へ向かって

 例えばの話。ある子どもが、大人の目に何だか非凡に映る時、大昔の日本ではよく「この子は神童だ」みたいな言い方でほめそやされた。

 平均以上の才能を見せる我が子に、親ばかのひいき目も入るのはご愛嬌で、それでも「末は博士か大臣か」みたいに期待を寄せたりする。子供時代の今こんなに優秀なのだから将来楽しみだ、というわけだ。

 でも、多分確率統計学的に残酷に事実を見ると、小さい頃に期待を一身に受けたような子で本当に大成するのは決して多くはない。むしろ、少ない。



 でもまた、逆もある。

 小さい頃に勉強ができずやんちゃで、大人を困らせてばかりの子がいるとする。

「この子は、将来が思いやられるな……」なんて親も心配する。

 犯罪者とか、せめて人様の迷惑にならないように生きてほしい、と「博士か大臣か」よりもかなりリーズナブルな(?)期待にハードルが落ちる。抜きんでなくてもいいから、せめて「普通であれ」と願う。

 これまた、世の色々な話を聞くとよく聞くケースだが、子ども時代さして期待されなかった人が、逆にその際立った個性(感性)や、フツーの教育では開花しなかった部分があるきっかけで開花し、世に名を残すような活躍をすることがある。

 本当に、子ども時代の評価というものは100%正直には出ず、むしろ競馬で言う「大穴」のようなことが結構起こったりする。



 さて、ここまで述べてそろそろ誤解をしてくる人もいるだろう。

 今回のお話は、一体何を言いたいのか。まさか、「小さい頃期待された子ほど将来それほどでもなく、小さい頃期待されずかえって心配されたくらいの子のほうが大成する」っていうのが今日の教訓!?

 もちろんブー。そんなヘンな結論の話に記事をひとつ割く筆者ではない。

 ここからが、本当に今日のテーマ。

 今現在非凡な才能を発揮する子を見て、「この子は神童だ」というのは——

 今現在ダメな子で、「これでは将来が思いやられる」 というのは——



●「今」という瞬間の情報を根拠として、将来を予測する姿勢



 だって、そうですよね。今目の前で子どもがすごく見えるわけですから、その「すごい」を、まだ見えないはずの未来にまでその線を延長させて見通しを立てるのだから。

 二点が決まれば、その二点を通る一本の直線が決まる。

「ある時子どもが非凡な才能を発揮し始めた」 → 「今も目の前にそれを目の当たりにしている」 この二点があるから直線が決まり、その直線を未来軸にまで延長していくと、「将来もきっと何かを成す大物だろう」という見通しを立てられる。

 これは翻って、小さい頃ワルがきのケースについても同じことが成り立つ。

 でも、なぜ?

 そういった見通しが単純にが当たるケース、期待通りになるケースももちろんある。でもそれにしてはハズレることも多いのは、一体何が要因なんだろう?



 問題は、先ほど触れた未来に関する大方の捉え方にある。

 先ほど触れたのは、多くの人が「今がどうだ」とか「これまでがこうだった」というここまでの情報をすべてとして、それだけを根拠に延長させて未来を予想しやすい、ということであった。

 こういった姿勢には、ある大事な要素が見落とされている。



●未来という、まだ見ぬ連続した物語の進行の中で、今の時点では予測もつかない無数の現象・事象がその人に押し寄せるのだという可能性に関して、ほとんど考慮していない。自分の責任範囲を頑張ることではどうにもならない不測事態というものが、加味されていない。



 例えば、子どもの頃天才でも、大人になる過程の中で色んなこと起こってくる。

 ずっと、子どもの頃期待されたベクトルを貫き保てていることのほうが、どちらかというとすごい。親や他者からの勝手な期待に押しつぶされたり、反抗的になったりする子も出てくる。子どもの頃の神童が、大人になっても大人物であることは至難の業であると申し上げよう。

 逆に、自暴自棄になっていたり、弱さの中で生きていた子にある日思いもよらぬ「出会い」があったりする。不良学生が「夜回り先生」に出会って生まれ変わったようになるとか。映画で、弱かったジャッキー・チェンがカンフーの達人(マスター)に出会い、見違えるように強くなるとか。人生って、そういう驚きの連続に満ちたシナリオなのである。

 ある時点で、これまでと今の二点を経験則から結んで将来を考えたって、当たりっこない。当たったら、それは正しく見通せたからではなく結果としての偶然である。



 結局、筆者が伝えたいことは「未来は分からんよ」ってことかな。

 期待するな、と言いたいんじゃない。期待していいけど、「計り知れない可能性と驚きに満ちているのが、まだ起こっていない未来の時間なんだよ」と知っておいてほしいのである。

 予想もつかないことが将来起こって、全然予想もしていなかった道に子どもが向かうこともある。私なんて、その最たる見本であろう。親の心臓も、よく私の人生のアップダウンに耐えてきたものだと思う。

 だから、今「見通しが暗い」人がいるなら、そう気落ちしなさんな、ということ。だって真面目な話、生きてさえいればこの先何が起こるか分からないんだから。あなたと関係のないところで、どんな要因(ファクター)が生まれ、あなたの人生に作用・干渉してくるか分からないのだから。

 もちろん、そういう外界の力学におんぶにだっこで、あなたは何もしない、というのは違う。

「天は自らを助くる者を助く」。

 どうしようもない部分は世界やその大いなる流れの中で干渉を受けつつも、あなたの動ける領分では納得のものを選ぶ。そうやって生きてればいい。

 忙しければ忙しいほど、過去と現在の「二点間観測天気予報」にくよくよしたり舞い上がったりしているヒマはない。今が楽しいからだ。

 そしてその今は、うかうかしていたらすぐにでもあなたの手から零れ落ちてしまう。常に、挑戦。冒険冒険、また冒険。



 イエス・キリストは「明日のことを思いわずらうな(心配するな)」と言った。

 裏を返せば、「お前ごときが心配したからって未来などどうにもならんよ」という意味である。

 無数の人々の思惑が複雑に絡んでくる、縦糸と横糸が超複雑に絡み合ったこのゲーム。そのままじっとしてくれていたらまだいいが、極め付け大変なのはセキュリティのためパスワードが一定時間で変わってしまうこと。だから、ある時うまくいった経験を、その後も「これもあの時と同じ」と判断しまったくやることを変えないと、失敗することがある。パスワードが古いのだ。

 すべては刻々と変化し、同じでない。諸行無常。だから、そんな途方もない相手に人間の知恵で未来予想を立てようなんざ、笑止千万。ただし、経済や科学などの面で予測を立てて対策を打つ、ということは必要である。あくまでも個々人の人生の大枠での話だと思っていただきたい。

 だが、人生長いしヒマつぶしも要るので、息抜きに「予想ごっこ」もいいだろう。ただ、マジになりすぎるな。熱くなりすぎるな。

 それは必要以上の「執着」を生み、「こうであるべきなのにこうではない」というところに凝り固まったがん細胞のような感情エネルギーがあなたの体を蝕み、ついには恨みに発展し、具体的な攻撃性となって噴出する。

 


 筆者も人間だ。ふとした時に、色々心配事や考え事が心に立ち上ってくる。

 でも、考えたってしょうがない、という思いがトリを飾る。

 できるのは、今目の前のこのことだけ。そう思うと、すっきりとした気持ちでやるべきことをやれる。で、あとはギャンブラーのように目を輝かせて、この世界というルーレットでどの目が出るかをワクワクして見守っているのである。

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