乱反射

 今回の記事は、オススメ本(小説)の紹介である。

『乱反射』は貫井徳郎による日本の推理小説。

 第63回日本推理作家協会賞長編及び連作短編部門受賞作。



【ストーリー】


 強風で街路樹が倒れ、側を歩いていた女性が押していたベビーカーに直撃する。

 我が子の止まらない血に動転する母親を様々な不幸が襲う。

 病院の患者たらい回し。

 軽い風邪程度で夜間救急を利用する若者たち。

「潔癖症」という病気により、犬のフンが転がる街路樹の診断を怠ってしまった業者。彼がその街路樹を診断しなかったことで、根腐れを起こしていたその木は強風で倒れ、子どもの命を奪うことに。

 街路樹の伐採に反対し診断業者を追い返した主婦たち。

 近所の子どもたちにはやし立てられ、プライドから犬のフンの片付けを途中で切り上げた市役所の職員。犬のフンを片付けなかった飼い主の老人……

 少しずつのモラルのない身勝手な行動が重なり合い連鎖し合って、一人の幼児を死に至らしめる。



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 これは、「犯人のいない殺人」であり「明確な殺意のない殺人」である。

 登場人物たちの個人的な事情、「これくらい誰でもやっている」「ちょっとだけだから」「だって仕方ないだろ」という、一人ずつを取り上げたら罪に問えないことが何重にも重なって、その偶然がある幼児を死に至らしめる結果を生む。

 この本から受け取ることのできるメッセージは、ひとつには「幸せと不幸は紙一重」だということ。

 登場人物はそれぞれに、本当にささいな「ズル」をする。それはもう、まさかそんなことが大事になるわけない、という根拠のない過信が産んだ産物。で、それぞれはそれが自分の知らないところで何を起こし、誰かに「迷惑」をかけていることなど知らない。知らないから、それなりに幸せな日常を送れる。

 でも、この作品の面白い所は、現実ならほぼ分からずに終わる「自分のしたささいなズル」の引き起こした結果があまりにも痛ましい事故となったので、登場人物たちが自分たちのしたことがそれに加担したことを「自覚させられる」体験をするところにある。

 皆、少しは「悪い」と思うのだが、登場人物のほとんどは、死んだ幼児の親に「謝らない」。そりゃ、私がそうなる原因のひとつを作ったかもしれないけど、そんなに悪いっていうの? 私一人が子ども一人死んだ責任をおっかぶるなんて、とんでもない! と逆ギレさえするのだ。



 交通事故での責任転嫁バトルみたく、ここでも「謝ったら負け」的な心理が皆に働く。もし謝ってしまえば、この先自分がその子の死という十字架を背負うことを認めるのと同じような気がしたのだろう。また、認めて言質でも取られたら、後々自分の人生にも響く。

 要は、気持ちはあっても結局自分がかわいいのだ。面倒事はゴメンなのだ。

 人という幻想ゲームプレイヤーの特徴として、自分に都合の悪いことで当たっていることを他から指摘された場合、過度の防衛機能が本能として働くようだ。それはもう、人によっては周囲はばからず、エゴむき出しにして。

 それを目の当たりにする経験をした者は、人とは何と悲しい生き物よ……と一種あきらめにも似た「悟り」を経験するだろう。



 でも、この本のすごいところはそこで終わらなかったところである。

 誰にも明確な責任追及ができない中、息子を死に追いやった原因を作った人たちが必死の調査で分かり尋ねて行っても、皆「何が悪いってんだ」の一点張りで、誰も「ごめんなさい」と言わない。

 そんなやり場のない怒りと絶望を抱えた夫婦が、最後に見た風景とは……

 人の暗部を突いて終わるだけでなく、最期には本当に胸に迫る希望を垣間見せてくれるラストが待っている。人生何があるか分からないけど、何があっても生きよう。そう思わせてくれる。



 で、もうひとつの重要なメッセージが「誰かが絶対に正しく、他が圧倒的に間違っているなどということはない。皆、持ちつ持たれつ似たり寄ったり」なのだということだ。

 痛ましい事故で小さい息子を失った父親はたまたま新聞記者で、取材や調査に関してはノウハウがあった。その過程で分かった驚愕の事実。小市民たちの、実にささいなルール違反が積み重なって生まれた産物で、誰か明確な一人を責められない、実に感情の持って行き場のない事件であることが分かる。父親は、なんて世界だろうかと生きることに半ば絶望する。

 しかし。オチとして父親の頭の中であることが繋がる。

 家族で泊りがけのピクニックに行く時。次のゴミの日にゴミを出せないからと、本当はいけないと思いつつも、近くのコンビニのゴミ箱に家庭ゴミをこっそり投棄したのだ。

 今回だけだから。日頃一生懸命働いて世に貢献してるんだ。少しは大目に見てくれ——。そんな行動を、息子の事件の少し前やっていた。

 自分自身もまた、省みれば糾弾している「ささやかな犯人たち」と同じことをしている。そのことに思い立った父親は、思わず叫ばずにはいられなかった。



●これは、当の父親は知らない設定の話であるが——

 作中の描写で、その父親の捨てた家庭ごみは、ある主婦によってゴミ箱から抜き取られ、ある人物の家の中にいやがらせとして投げ込まれる。

 その投げ込まれた家は、幼児の命を奪った街路樹のある道路拡張の障害となっている、市の立ち退き要請に従わない最後の一軒であった。そのことが直接の原因かどうかは不明だが、その家の主は発作で死ぬ。その後急速に道路拡張工事の話が急速に現実味を帯びていき、街路樹は伐採という動きになっていくのであるが、その反対運動を起こしたのが皮肉にも「ゴミを投げ込んだ主婦の友人」だった。

 こうして、負の連鎖は運命の神様しか知らないところで、どんどんひとつの結果に突き進んでいったのだ。

 残酷な言い方をすれば、出し忘れたゴミをコンビニへ捨てた親の行動が、皮肉にも我が子の命を奪う一因として加担したのだ!



 世の宗教や自己啓発、スピリチュアル、書店に並ぶ 「生き方指南本」などは、「現実を忘れさせてくれるツール」として使うしかない。

 それにフォーカスすることで、そういうメガネを通して世を見ることで、細かい部分を見ずに済む機能も備えているため非常に幸福感を得やすい。

 そして、そういうものに関わる多くの人は本気である。それらの教義や内容を使って心がけや視点を変えた気になり、そして自分の周囲のささやかな変化に「ほら、これ私が引き寄せたんよ!」と得意になったりする。



 人間が幸せなのは、あなたが認識して「問題ない」と思われる現象の背後に、それを支える背後にどれだけの闇がうごめいているか知らないから、認識しないから幸せな気分でいられる。

『知らぬが仏』という言葉は、まさに今日紹介した作品のためにあるような気がする。逆もまたあって、あなたがさして関心を払わない、感謝せず当たり前のように思っている現象の後ろに、どれだけ美しい物語(愛や思いやり)が隠れていることか。

「知らないことで幸せでいられる」ことがあり、「知らないことで幸せを感じる機会を逃す」こともある。同じ「知る」という現象でも、一期一会の状況によってそれが良くも悪くもなる。本当に、生きるとは日々ギャンブルのようなもの。

 筆者が本書のようなメッセージを書いて日々懲りずに発信しているのは何のためか、と考えた時。ひとつの思いが形を取って、現れてきた。



●こんな自分のコトントロールしきれない、何が起こるか分からない世界だけど、それでも、私が間違いなくここに「在る」ことは否定しようがない。

 生きていくしかない。だったら、四の五の言わず、生きてやろうじゃないの。

 起こっている出来事の範囲の中であっても、それを最大限利用して幸せになってやろうじゃないの。最後まであがいてやろうじゃないの!



 そういう覚悟を持てるように、書いてるんじゃないか。

 自分も。そしてこの文章を読んでくれる皆さんも。

 諸行無常のこの世界に対して、登場人物一人程度ができるささやかな「宣戦布告」。ゲームオーバーになるまで、幸せをあきらめんぜよ! 意地でもなっちゃるぜよ!……そんなことを思いながら、今日も記事を書き終えるのであった。



 この本は、是非皆さんに広く読んでほしいです。

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