スピリチュアルの難しさ

 今回のタイトルに疑問を持つ人もいるだろう。なぜなら、昨今のスピリチュアルでは大事な本質は実に「シンプル」であることをうたい文句としているものも多いからである。

 人生ってシンプル。スピリチュアルってシンプル。真理ってシンプル——。そうやって、なんでもかんでも「シンプル」に考えるのがお好きな方が多いようだ。



 筆者とて、スピリチュアルの本質はシンプルだ、ということには基本的には不賛成ではない。その通りだと思う部分もある。

 でも、本当にそれで片付けてしまっていいほどスピリチュアルに問題はないかい?と思うこともあるのは確かだ。

 シンプルだと言い張るなら、言い換えれば分かりやすいということではないか。

 分かりやすいということは、完璧は無理にせよ「誤解を生む振れ幅を最小限に抑えられる」はずだということである。当たり前のことを言うが、「難解で複雑ではないので誤解が少ない」というメリットがないなら、真理がシンプルであるということにまったく価値はない。

 現実問題として、スピリチュアル界には現実社会の縮図のような問題がある。それは宗教についても言えることで、精神世界における向上や愛ということを目指している集団だから世間より精神的に上等で愛が深い人たちの集まりかと言えばそうでもない、という悩ましい現実問題だ。

 失礼を承知で言えば、スピリチュアル関係の団体も何ら世間の組織と変わらない。

 あけすけに言えば、成果が出ていないのだ。もちろん、スピリチュアルによって一定数の「幸せをつかむ人」は排出されているが、「シンプルなんだからもっともっと爆発的に湧いてもおかしくないのに!」という事から考えると絶対に少ない、と言いたいのだ。



 スピリチュアルがシンプルなら、そのメッセージに書かれてある法則や実践内容などの指針も分かりやすかろうから、成果もダイレクトに得やすいはずなのである。

 高額な、部品数の多いプラモデルならプラモマニアなど熟練した人向けで、素人が手を出すと組み立て間違いをしたり、部品を無くしたり、見本のようにきれいに組み立てられなかったりするだろうが、数百円程度の部品数も少ない単純な組み立て工程しかないプラモデルなら、まぁ天才的な不器用さんでもない限りちゃんと完成するだろう。それと同じことである。

 シンプルなら、それをきちんと応用して生かせる人口比率も多くなるはずなのである。でも、何でだろうねぇ。スピリチュアルで生き生きしてて幸せそうで輝いているのは発信者ばかり。指導者層ばかり。(それも怪しいけどね)

 例外もあるだろうから知らない分は失礼するが、世の人とスピリチュアル実践者の間でそう人間の質が違うように見えない。いや、むしろ余計なこと(目に見えない世界の話)を考えて背負っている分、一般人より大変そうな人すら見かける。

 スピリチュアルを知らない人のほうが善人に見えることがあるほど、スピリチュアルがその人の向上に一役買っていないケースもある。つまり、「イタい」スピリチュアル実践者のことだ。

 ここまで考えると、ひとつのテーマが浮かびあがる。

 スピリチュアルがシンプルだ、と言い切ってしまうには、そう単純に片付けられない多くの問題と矛盾をはらんでいる。そこで、ふたつの問いが生まれる。



①スピリチュアルがシンプルだ、というのは本当なのか?



②仮に本当だとしたら、スピリチュアル自体に問題はないのだとしたら、じゃあ問題のありかはそれを扱う「人」の側にあるということになる。それは一体どこか? 



 まず、①に関してはすぐ終わる。

 シンプルだと言える。

 では、②。結局、スピリチュアルに向き合う人間側に問題がある。

 スピリチュアル、特に悟り系の内容は、その出自がこの世界ではない。いくら大元がはシンプルとはいえ我々の次元を超えたところ(非二元)のものだから、必然的に完璧な理解に至ることは理屈上不可能だ。この変化の世界・相対の世界という「2以上の数が存在する複雑な世界」に相手を引きづり降ろして無理くり解釈・翻訳することになるのだから。

 かくして、せっかくの「シンプル」は、この世流に翻訳されて「複雑」と化ける。

 だからせっかくのシンプルも、人によって場所によってタイミングによってどんな力が横から干渉してきたかによって、出る結果が千差万別(ケースバイケース)となってしまう。

 それに人は機械ではない。複雑なものを取り扱うと、時々(しょっちゅう?)間違いも犯す。



 では、問題の本質を分かりやすくるため、ひとつの例えを提示しよう。

 あるスピリチュアルメッセージに、以下のような文章があった。



●あなたが体調がよくないとき、誰かに「元気?」と声をかけられたとします。

 そんな時、あなたは正直に対応してませんか?

「実は、あまり体調がよくないんだ」と言ってませんか?

 これはより体調を悪くする行為です。体調が悪いと自分で認めていると同時に、他の人にもあなたが体調悪いと認めさせたからです。これでその人のマイナス想念も加わります。

 だからそんなときは、あなたは正直に答える必要はありません。頑張って「元気だよ!」と答えてください。

 それこそ嘘でいいから「お陰様で、元気です!」「お陰様で、健康です!」と言いましょう。そう対応すれば、良い状態を引き寄せます。重い病気ならなおさらです。



 ふんふんなるほど、と読む人多いんだろうねぇ。

 もちろん、この考え方が好きなら別に私は間違っているなどと責めない。だってその人の世界だからね。

 ただ、筆者ならこれを「とんでもない妄言・暴言」と判断する。これほど無茶苦茶なメッセージはない。

 では、どういうところがダメなのか、追って行こう。



 この世界は、陰陽の相対世界である。

 本来ないものが、あるもののように捉えられる世界である。

 例えば、気候上の「暑い」「寒い」という言葉がある。

 普段そんなことは考えないだろうが、冷静に考えると「暑さ」などというものは存在しないし、「寒さ」なる何かが具体的に存在するわけではない。ただ客観的な「気温」という数字上の基準に即して、人間側の勝手な「感じ方」によって生じるある種の「幻想」である。

 暖かい地方の人が「今日は寒いな」と思っても北国に住んでいて寒さに強い人なら「こんなもん寒いうちに入らない」ってこともある。だから、絶対の「暑さ」や確固たる「寒さ」という基準は個人の感じ方に左右される実にいい加減な基準ということになる。



 スピリチュアルの傾向として、こういう「個々人の見方に依存するもの」に過ぎない価値判断に関して、ここに依存する「思い込み」にズバズバ切り込んでいくアプローチが多い。

 それって、あなたの決めつけにすぎないんではないですか? とか。

 それは、揺るがないものではないんですよ。体調もそうですが、すべての「良い・悪い」の基準は、時と状況で変わる実に流動的なもの。

 だから、良い悪いを決めることでそれが自分に損に働くなら、そんな価値判断はいっそやめませんか?「悪い」と決めるから本当に「悪い」 世界が展開するんです。逆に「良い」と決め、それを口にする(公言。アファーメーション)することで、それをいち早く引き寄せることにもつながります——。

 このような理屈を支えるのは、『言霊ことだま』という概念である。

 言葉は命を持っている。命っていうのに抵抗があるなら、ある指向性をもつエネルギーを秘めている、という表現でもいい。

 良い言葉を使えば、そこに宿る言霊はよいエネルギーを持ち、その通りの良いことを現象として産む。また悪い言葉、絶望や恨み、また自己中心性から出た言葉はネガティブなエネルギーの指向性を持ち、それに比例したその通りの世界を、言葉の主に見せてくる。

 だからシンプルなスピリチュアルの指導だと、「いい言葉を使いましょう。悪い言葉は使わないようにしましょう」ということになる。さらに発展して、「たとえウソでも悪い言葉は使わないようにしましょう。正味悪くても、とりあえず良いと言っておきましょう。そうすればいづれ、状況は変化するでしょう」という言い分になる。

 筆者はまず、「言霊」というものに対する偏見を突きたい。



●いい言葉を使えばいい事が起きる (引き寄せる)

 悪い言葉を使えば悪いことが起きる (現実化する)

 こういう理屈を下手に言い切ってしまうと——

「刃物を持てば誰でも悪いことに使ってしまうことになる」

「聖書さえ読めばだれでも善人になる」

 そう言ってるのと同じようなものである。構造は同じ。



 なぜ、そんなに「言葉」というものを上に見る? すごいと見る?

 筆者個人は、言葉なんて神である人間の本当の気持ちに比すると、そう重きを置くものではないと思っている。

 言葉はただのツールにすぎず、そのツール自体が独り歩きして必要以上の意味を持ったり、使い手であり主人である人間に迷惑をかけたりは本来しない。するとすれば、それは道具を使う側の人間の未熟さと認識不足である。

 まるで、あなたという人(神)よりも言葉の方が強力でもあるかのよう。

 


●言葉がパワーを持つのは、そこに「思い」が乗っかった時だけである。



 ホンネの思いが言葉と合体した時、無敵ロボのような圧倒的力を持つ。

 例えばある人が、少々調子悪くても「私は本当は元気なんだ!」と思ったとする。そしてそれが、やせ我慢ではなく本当にそう思えたとする。

 それが、一番言霊が意味を持つケースだ。ホンネが乗っかるので、そのパワーたるやあなどれない。少々の体調不良など、吹っ飛ばせてしまうこともしばしば。

 だから私は、今回紹介したメッセージを全否定したいわけではない。確かに、病気だと認めない、言葉にしないことで状況が好転していくケースはある。

 しかし、例外があることを認めるべきだ。本人がホンネで「やっぱり自分が体調が悪い・病気だということは否定できない」と思っている時。それを病気じゃない、元気だなどと言えば正直なところ自分にウソをつくことになる、という自覚がある場合には——



●元気だ、と宣言することにまったく意味はない。

 そんなもの、癒しにもならない。

 健康を引き寄せもしない。だって、言霊が死んでいるからだ。

 ホンネとズレた言葉には、言霊が宿っていない。ただの抜け殻。



 自己啓発とライトスピリチュアルの弊害がコレ。

 なんかいい言葉を口にしていれば、そのことが良い何かを生むというアホな期待。もちろん、たまにそういうことも起こるから皆誤解するのだが。

 冷静になると、「ホンネと合致したアファーメーション(宣言)」しか実現してないことに気付くはずだ。思いがついていっていない言葉だけの内容など、現実化してほしいなどムシがよすぎ。

「本気で、自分は大丈夫だと思いましょう。ただ、どうしてもウソになるような思いが取り去れないなら、無理はしなくていいですよ。そういう自分を認めてあげましょう」とでも言えばいいものを。ウソでもいいから「おかげさまで元気です!」と言えだって。



●ウソはウソである。



 そんなことも分からないのだろうか?

 病気は病気である。体温計で測って熱があるなら、あるのである。明らかに体調が普段通りではないということだ。

 そんなもの、相対概念? 絶対ではない? そう決めるからその通りの現実になる? いい加減にしろ。

 決めつけたらその通りの現実になるくらいなら、もっとこの世界は違っているはずだ。もしスピリチュアル実践者が、現実は関係なくこうあってほしいという良いことを日々アファーメーションしているのなら、もっと世界はいい世界のはずだ。

 皆さんの言う「言霊」は仕事をしてへんのとちゃうか? さぼっとるんか?



●結局言葉それ自体に、大した力はない。

 言葉それ自体だけでは、人を傷付けることも幸せにすることもない。

 ただ、発した人の思いだけが、言葉を媒介として物事を左右する。

 言葉に込められた思い(素直なホンネ)によって、言葉は薬にも兵器にもなる。



 さて。今日言いたいことのキモに話を移す。

 結局、今日冒頭で紹介したあるスピリチュアル発信者の言葉は、「シンプルなスピリチュアル」を誤ったシンプルさで捉えた。

 


●「状況に関係なく、いいことや望むことを言葉にしていくシンプルさ」



 言霊の力、そしてそれの持つプラスエネルギーと「引き寄せ力」を頼みとし、常に良い方向で発想することで、時間性とともにそれを実現していき、一時的な良くない状況をやりすごしてしまおう。そんなメソッドであろう。

 でも、まず間違いなく失敗する者が多く出るだろう。このメッセンジャーのこの言い方では、多くの人が情報不足で失敗する。

 それは例えれば、部品が多く組み立てに複雑な工程を要するプラモデルの説明書において、いくつか項目が抜け落ちているようなものである。情報がない分は、作り手の経験や想像で補うしかないが、高確率で失敗するだろう。

 すべてのキーワードは、「ホンネの思い」である。そんなもの、瞬間的意図的に操作できる性質のものではない。

 瞬間的に「あ、うそくさ!」と思えてしまったら、どんなに気張ってもあなたのホンネは変わらない。その場合こんなバカなアファーメーションはやめたほうがいい。

 しかし、素直に「その通りだ」と思えるなら、口にしたらいい。そういうケースでだけ、言霊というものは有効利用できる。



 言葉自体に霊力でもあって、ウソでも言ってるうちに自分が変化するとか。

 そんな発想おすすめしない。

 逆にそれでいいことでも起きて味を占め、そのワークの常習犯になると、あなたは後々言葉に対する主人としての立場を失う。言葉に対するコントロールが効かなくなる。あなたは逆に、言葉(言霊という考え方)の奴隷となる。



 ウソでも、本音でなくても言葉にしている内に良いことが起こるという幸せのつかみ方は、リスクが大きい。自分で幸せになるのではなく、ランプの精のようなものに頼った「他者依存の幸せ」になるからだ。幸せになったのではなく、幸せにしてもらったのだ。これでは、あなたは自分の好きなタイミングで選んで幸せにはなれず、すべて現象の結果に頼ることとなる。

 もう一同言う。言葉それ自体に何の力もない。ましてや命など宿っていない。

 神でもない。言葉は幻想と同じである。言葉、という何かがこの世界に存在するわけではない。人の頭の中だけにあり、他にはどこにも実体がないもの。

 本やノートに書かれた文字は、単なるインクを構成する原子の配列が見せる「形」にすぎない。言葉にされた音声は、ただの振動に過ぎない。

「アホ」も「死ね」も外人には意味がない。

「ダイ」「ゴートゥーヘル」とか「フーリッシュ」「ファックユー」とか言っても、最近の国際化と英語の普及で意味の分かる人が増えたとはいえ、日本人にはあまり強く作用はしない。

 私は、ホンネではない汚い言葉をどれだけ口にしても、そのせいで悪いことを招かない自信がある。逆に、ウソくさく感じているのにどんなにきれいな良い言葉を沢山口にしても、それを原因として良いことを招く自信はまったくない。

 


●言葉を使ったらから、それが何かを起こすという因果は存在しない。

 あるように見えるのは、星座を作り上げたような「物語付け」。

 ただ一つ間違いないのは、ある程度の強い思いを乗せて発された言葉だけは、何らかの仕事をすることがある。ただ、思いが弱かったりホンネとちぐはぐだったりする時、それは大したことをしない。



「私は病気です」と認めること自体に、何の問題もない。

 いや、むしろ「元気です!」って言い張られたら、迷惑じゃね? インフルエンザだったら、なおさら。コロナだったらもっと!

 ちゃんと自分の状況を、生かされている社会の流儀に従って客観的かつ一般常識的な判断をすることの、何が悪い?

 まず、心配してくれている人に失礼。まるで、年寄りに席を譲ろうとしたら「あたしゃまだそんな年寄りじゃありません!」って言われたケースみたいに相手は恐縮するかもしれない。

 あなたが大丈夫そうだったらね、相手は「大丈夫?」なんて聞かないの。

 大丈夫じゃなさそうと思わないと、聞かないの。決して 「体調が悪いのか、悪くないのか」のイエスノーを聞きたいんじゃない。悪いことは前提で、「何か手助けできることはあるのか、それとも手伝うほどではないのか」が聞きたいだけだ。

 そこを、「そもそも病気なんかじゃない」なんて、なんてズレた会話になることか! あんた、スピリチュアル関係者以外の友達減るよ。(笑)

 だって、めちゃ空気読まない会話でしょ? 心配してくれてるのに全然大丈夫、なんて。「お前の眼は節穴か? 健康なのに」って受け取られても、相手を責められないよ。 



 私たちはこの世ゲームというものを、一定のルールに従ってプレイしている。 

 スピリチュアルは時々、悪意からではないにしても人をそこから逸らさせるようなことを言って、人を惑わす。このゲーム枠を超えた視点においては正しいから、なお始末が悪い。

 幻想だろうが、経験則に基づいた価値判断というのは生きるのに必要なのだ。それを認めて生きないと、余計生きづらくなるよ。

 ウソでも~しましょう、というのはやめよう。ウソはウソで、それ以上でもそれ以下でもなし。もっとまともな方法で、病気を治しましょう。健康をつかみましょう。



 スピリチュアルのシンプルさとは、表面上の言葉や行動より、正味の「ホンネ」や素直な気持ちを尊重するという点にあり。

 それこそが大事である、ということにある。でも、それ以外のところ、例えば今日紹介した話のように——

「ウソでもいい言葉を使いましょう。自分はOKだと思いましょう」

「ホントでも悪いことは認めないようにしましょう」

 ……というところにはない。これらは、ピントのズレたアドバイスである。



 悪いと認めないなんて、交通事故で先制して責任を軽くするヤクザまがいの戦法に近い。

 言葉上病気だと認めたって、体調が悪いと認めた程度であなたを本当に悪くする宇宙なら、そんなくだらない宇宙要りませんよね? 破壊されたほうがいいくらいですね!

 正直に生きて、その結果悪いものは悪いと認めたからってあなたに実害はない。あるとすれば、それはまったくジャンルの違う別のことが問題になっているだけです。

 だから、ただ言葉の使い方で何かが変わるような錯覚を起こさせるスピリチュアルに、筆者は辟易しているのだ。

 

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