知らない・知らない
我が家の目の前は、『生活道路』である。
娘が幼稚園バスの停車場所まで行くのには、そこを横切らないといけない。
間の悪いことにこの道路、ある方向に行きたい車にとっては、大通りの長めの信号を回避できる「絶好の抜け道」になっているのである。道に詳しい人は、そこが絶好のショートカットになることを知っていて、通り抜けてくる。
しかし、私たち家族を含めその道路沿いに住まう者には、まさに「生活道路」。ビュンビュン通過する車に、時々嫌な思いをする。
ついにこの前、『生活道路につき、通り抜けご遠慮ください』と書かれた看板が設置された。じゃあそれで効果があったのか?……と聞かれると、住んでいる当事者の感覚としてはノーである。
人というものはズルいもので、スピード違反とか実力行使で罰則を与えてくる脅威にはビクビク慎重になるくせに、こういう拘束力のほぼない「お願い」に過ぎない守り事は、甘く見られる。ほとんどの抜け道利用者は、こちらの身になって考える気はさらさらないようで、黙殺しているのが現状だ。
中でも一台、ちょうど娘がバスの待ち合わせ時間になったくらいにいつも通る、通勤中らしい一台の軽自動車がある。乗っているのは茶髪の若い女性。向こうは速度を出して移動しているのでパッとしか見えないが、なかなか美人である。
出会い方が違っていれば、好意すらもったかもしれないことを思えば、人間とは複雑だ。その女性に「生活道路につき…… の看板は、免許が更新できる視力があるなら絶対に分かっているはずだ。でも、全然気にしていないようだ。
まずいことは何も起こらない、という自信か。はたまた「自己責任だからいいだろ」という開き直りか?
こういう時、自己責任という言葉は凶器になる。
その女性は生活道路に侵入してくる割に、結構なスピードを出している。
向こうにとってもちょうどその時間が通勤時間で、私たちが道路に出るのと同じタイミングでそこにさしかかるのだろう。
道路は短いので、本当に用事があって入ってくるのか通り抜けなのかハッキリ分かる。通り抜けたらすぐ大通りへ出るので、指示器を出して曲がっていったら間違いなく抜け道利用確定。
何度か「一度車の前に出て停車させて、一言言ったろうか?」と思うことがあるが、まだ実行はしていない。このこととは関係ないが、うちのアパートの駐輪場に時々関係ないヤツが駐輪しているのを見る。ウチは駅近なので、駅前の一時預かりに止めたら数百円かかるのが浮くからだろう。
そんな風に、「自分さえよければ、罰則がなければ、迷惑がかかる他人がいることも思いやれず得になることを選ぶ」魂モラルの低さよ!
スピリチュアルで「人類全体の意識が上がっている」と言うものもあるが、どこがだ? と思う。そりゃあ「見えていない部分」が多いから言えるのだ。それだけその発信者は「幸せだ」ってこと。
スピリチュアル人口自体そう大したことないんだから、マイナーな意見であると言って差し支えないだろう。
その女性は多分、日々フツーに出勤し、平常心で車を運転し、毎日を生きているのだろう。心の中に「自分が迷惑がられているかもしれない」なんて疑念が湧くこともなく。
その女性は、「幸せ」すら感じているかもしれない。だから、その女性が「幸せ」であるとすれば、その幸せとは——
●すべてを知らないことから成り立っている。
部分的にしか知らないからこそ、幸せは生じる。
これは、今日挙げた生活道路の確信犯的な通行者だけの話ではない。広く、人間の人生全般に当てはまる傾向である。
物的に恵まれた日本人の幸せは、他国(発展途上国・戦争をしている紛争国)を知らないことから成り立っている。「都合の悪いことは考えない」というのが、単純に幸せになるための秘訣である。
映画やドラマの世界でもある。素敵な家で、よい物件に運良く出会えたと思って購入後喜んでいたが、そこが実は「いわくつきの場所」で、怪現象が起こり一転して恐怖の日々に。
いい人だと思って結婚したが、その後これまで見せたことのなかった恐ろしい一面が顔を出す。
食品を含め、完成したモノだけしか見えない消費者には、そこまでどんなドラマがあったのか知らない。そういうのが時々暴露されて、一般市民は驚くことがある。
だからといって、知るにも限界というものがある。
何でもかんでも明らかにできない。人それぞれ、自分の仕事が、生活がある。それ以外の時間も、世間の知られざる恐怖を暴くことになんか当てられない。せっかくの余暇なんだから、やっぱり趣味や「楽しいこと」に時間を使いたいではないか。
だから、こう思う。
●知らないでいい。無理に、知ろうとしなくていい。
知りたくなった時。あるいは、他人の行動や成り行きにによって「知らされてしまった」時。「知る」のはそのふたつのケースだけでよい。
「知らないことがあることで幸せは成り立っている」が、あなたにその知らないことを追及する義務も責任もない。あなたは「知らないことで幸せになっていい」し、その権利がある。
でないと、一体この相対世界で誰が幸せになんかなれる?
今回のケースで言えば、生活道路に毎日侵入してくるあの女性は「幸せ」でいい。だって、「知らない」「気付いていない」のだから。
どちらかというと、この女性を迷惑に思う「私の方」に問題がある。本当に迷惑なら、ちゃんと女性に言わなければならない。その行動力を持たないと、迷惑がる資格は厳密にはない。
思ってるだけで心の世界でブツブツ文句を言って気分悪くなるのは、その人の全責任である。相手は悪くない。相手に責任が生じるのは、こちらが本気出して相手に「迷惑している」ことを伝えた後。
知らされてもなお反省しなかったり、行動が改まらなければハッキリ相手が「悪い」。そうなる前には「心に思っているだけで何ら手を打たない」被害者の問題であり続ける。
だから、筆者の今の思いとしては——
今はまだだが、流れでよっぽど言いたくなったら言う機会もあるだろう。今のところはまだ注意する気にならないので、このことで相手を悪く思うのはやめよう。
自分が悪いと思っていないで幸せな人のことを、こちらで勝手に悪者にして不快な気分になるのほど「負け」なことはない。悔しいことはない。恋愛ではないが、まさに「不毛な片思い」。
相手が分かっていないなら、「伝えてなんぼ」。何でも、ちゃんと言わないと分からないんですよ。
相手に察しろ、なんて酷。人間は、そんなにできた生き物ではない。ちゃんと伝えて、相手に考えさせてこそ、その結果をもって相手を「裁ける」のである。
その余地も与えず、理屈で相手が悪いからと言って心の中で悪人にしていては、あなたの心が貧しくなる。皮肉だが、何も知らない、気付いていない相手はそんなあなたの気持ちなど知らず、気分よく生きているわけである。
すべての人には、「知らないことで生じる幸せ」を味わう権利がある。
ただし、個々の人生でその利害が衝突する時、各自の判断で相手に「目を覚まさせる」権利を行使することもできる。相手が気付いていない情報を伝えることで、相手の「幸せ」を致し方なく変化させることもできる。
その手段を、講じようと思えば講じれるのに、「問題を起こしたくない」「関わり合いになるのが面倒」「ケンカして傷付きたくない」などの個人的理由から行動を起こさないなら、悪いのは相手ではなくあなたである。
悪いことをしたと自覚してない存在を心の中だけで悪者にして貶めるのは、愚かである。相手は傷付かないし、何らダメージもない。あなたが単に自傷行為をしているだけ。
知らないことがあること前提の幸せ、というものが世間一般で言う「幸せ」の正体なのだ。
でも「真実にこそ幸せがある」、と言う人もいる。たとえ傷付くような残酷な真実でも、真実ならば嘘よりもいい、と言う。
心がけは立派だが、果たしてあなたの心はそれだけの耐久性があるかな?
物事というのは、タマネギの皮をむいていくようにより深く細かく知っていけばいくほど、残酷な真実がそこにあると知ることになる。で、知れば知るほど悩みは増し、それをカバーするためにさらに知ろうとするが、どこまで行ってもキリがない。
仮に、すべてを知った(情報そのもののすべてを知る、というのではなくその代名詞としての「本質」に触れた)境地というのは、単純に「幸せ」な状態とは似ても似つかない。そんな言葉は全然的確ではない。底まで(底なんて人間の勝手な設定だが)知れたら、そこにあるのは幸せなどではなく「諦観」という言葉のほうがまだ当たっている。
誤解の多い平たい言葉で言うと、「あきらめ」。これを言い訳がましく格好良く言うと、「手放し」または「降参」。
転じて、悟りというものはそのようなものである。
もし、あなたの悟りが「幸せという成分で成り立っている」と言うなら。世界は愛だ (相対性の定義で「愛じゃない」ものも存在する前提の、あなたに心地よい愛)と主張するなら、あなたの悟りは勘違いである。
最後に付け加えることがあるとするなら——
●行動を起こしたら、結果はどうあれ甘んじて受け入れろ。
生活道路に入るな! と言ったら相手が謝って改めるとは限らない。人によっては逆ギレしてくるかもしれない。
それはもう、こちらでコントロールできることではない。成功率を高めるための「あがき」はできるが、最後はサイコロを振るようなものだ。
相手が聞けばよし。聞かなくても、それはそういうドラマ運びなだけ。
もちろん、納得いかない! と言って、さらに相手に粘着することもできる。裁判で控訴するようなものだな。でもその場合、相手だけでなくあなたにもダメージが来るし、疲弊もすることを覚悟の上かどうかが問われる。
正しくあろうとしてある人に関わった結果、その相手がとんでもない人で振り回されて疲弊した時、あなたは後悔するかもしれない。『こんなことなら、あの時多少納得できなくても我慢して声をかけなければよかった。そうしていたら、こんな地獄の日々はなかったのに!』と。
幸せになる秘訣は、ほどほどのところで手を打っておくこと。
知り過ぎ、深入りは良くない。(ただ、あなたの深い所からの衝動なら別)
かといって知らなさ過ぎても、罠や悪意の毒牙にかかる。
知り過ぎても、知らなければ幸せだった時間を取り戻せない。
そのさじ加減をうまく調節するのが、生きるっていうゲームなんだろう。
皮肉だが、頭で勝ち負けや損得をあまり考えすぎず自然に任せる、というのが一番のさじ加減だったりする。
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