真打ちは世に出ない

 どこで誰に聞いたか忘れたが、妙に納得した話がある。

「本物の超能力者は世に出ない」という話だ。

 この言い方では誤解を与えてしまうので厳密に言うと、ホンモノは出るけど「トップクラス」「本当にずば抜けてすごいの」は出て来ない、という意味だ。小物は出てくる。



 世の中に出てきてTVや各種メディアに出て、「オラぁ超能力持ってんぞ~」というのは、まず大したことない。もしその力が「ホンモノで、しかもすごい」ものだった場合、TVに出て人気者になっていい目見る、なんて悠長なことにはならない。マスコミなんぞにつかまるまで放っておかれない。

 まず、国家(政府)に確保されてしまうよ。

 それかCIAとかMI6とか、各国の諜報機関に追いかけられる。で、利用されていく。だから、それがイヤなら爪を隠す。

 世に出てても放置されているのなら、国が相手にしないレベル。プロ球団が、どっかの町内の草野球チームで少々うまくてもスカウトなんかしないのと同じ。



 筆者は、スピリチュアルという業界においても、同じことが言えるような気がしている。すなわち「真打ち(一番の覚者。もっとも高い意識レベルに至った者)は、世の表舞台には出てこない」。

 もちろん、世で有名になって稼いでいるようなのが「ニセモノ」だとまでは言わない。それなりの真実がそこにはある。筆者が言いたいのは、メディアに出てくるようなのは「上の下」であって、「上の上・つまり最上」が世に隠れている、と見る。



 芸能人とか政治家、芸術家などは問題ない。

 内容そのもの(演じること、音楽、政治)と、人に広く知られて有名になることとベクトルが同じだから。相性がいいんだな。有名になってこそ、人気者になってこそ本領を発揮できる部分があるから。

 言い方を変えれば、目指すもののその性質から「有名になることがマイナスにならない」。だが、問題はスピリチュアルである。

 スピリチュアリズムの本質が目指すものと、特定の人物がその特定のスピリチュアリズムの代名詞のようになり、いっぱしの有名人になるということとは、親和性が低い。ベクトルが違う。

 だから、よほど慎重にやらないと、どこかでひずみが出る。足元をすくわれる。人間とは弱い生き物なので、ついつい初心を忘れてあらぬ方向に走る。

 もちろん、世に出て名声を得るスピリチュアル指導者が皆そうだとは言わない。数いれば中には立派な方もいる。

 でもその立派というのは、「あえて背負ったハンデを乗り越えながら」の立派さである。そもそもそんなものがなく、全力を自分が望んで関わりたい身の回りだけに注入できる「隠れ覚者」に及ばない。

 100メートル走で、20キロのおもりを背負って走るのと、何も背負わなくてよいのとどちらが早いか、一目瞭然であろう。だから、色んな先生の熱烈なファンがいることは承知でこれを言うが——



●有名なスピリチュアル発信者に、真打ち(最高級の力量を持つ者)はいない。



 真打ちは、ひっそり世に紛れている。

 あるいは、多少有名ではあろうが、そこはうまく「知る人ぞ知る」ように(ローカル路線)留め、決して身辺が騒がしくなりすぎないようにしているはずである。

 望んで目立とうとするようなのは「最高実力者」ではない。例外として、本人にその気はないのに弟子やその人物の知り合いなどが広めてしまうケースもある。「姉が勝手にジャニーズに応募したのがきっかけ」みたいな話である。

 人間は、その持てる能力の幅が決まっている。使用できるメモリーが決まっている。パソコンのメモリーを想像してもらったらいい。

 人気者になる指導者は、「エンターテイナー的要素」を必ず持っている。いくら正しい良い内容を発信していても、出し方が面白くないと相手にされないのが世の中である。人気者が日夜労力を割いているのは、自身を高めるスピリチュアルな取り組みなんかよりむしろ、講演会や動画で『いかにウケる話ができるか』だ。

 そこに割くメモリー分、商売人スピリチュアリストはムダな使い方をしている。そんなことに能力メモリーをあえて消費する必要のない自由人は、変な話無数の人間の利害や思惑に絡む有名人指導者よりも伸び伸びできる。へんな話、「ピュア」でいられる。



 だから、筆者も多少は自覚している。

 そりゃ、多少はスピリチュアルを発信する職人としての「血」は入っているけど、結局あたしゃ「物書きであり、発信する時にはエンターテイナー」なんだよなぁ、と。

 広く知られ話が聞かれるということは、不特定多数におおまかな「道」を示せる、ということである。相手に会うことがない(リモート)場合もあるし、会ってもその一人に割く時間は僅かになる。

 一方で、名もなき市井しせいの人の場合は、その置かれた場所で関わり合いになった人と、比較的濃密に関わることができる、ということ。

 前者を、絵の全体を描く「大筆」、後者の立場を、そこここの細かい場所を丁寧に仕上げる「小筆」だとたとえよう。得てして、偉く見えるのは前者であり、人々が憧れたり目指したがるのも前者である。

 でも、私は個人的に、「後者の立場に敬意を表する」。そちらのほうが、筆者などよりもすごい仕事をしているように思う。

 確かに、全体に向けて発信し広い全体を相手にする役割も、決して世に出ずひっそりと限られた人にだが多大な影響を与える役割も、個性の違いであり優劣はなく、同価値ではある。

 しかし、私はスピリチュアル自体をお金を稼ぐ手段として人と関わっていることで、「本来気を遣わなくていい所にエネルギーを使っている」ことを認める。それすらすべて、「必要なことが起こっている。ムダはない」という観点からすれば別によいのだが、それでもやっぱり「煩わしい」部分があることは否定できない。



「基本、エンターテイナーであること」を自覚しつつ、今日も私は生きる。

 日常の中で、目の前の人に向き合い時間を使える市井の覚者に敬意を払いつつ、自分はその下に甘んずることもまた良しとしながら、今日もこのような文章を書く。そして不特定多数向けの動画配信でしゃべる。

 だって、それこそが「私」なんだもの。

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