あなたが変われば世界は変わる?

 筆者がかつて金科玉条のように信奉し、座右の銘にしていた言葉がある。

 それは「あなたが変われば世界は変わる。私が変われば世界は変わる」だった。

 これは、宗教でもスピリチュアルでも自己啓発でも、だいたい言うことである。これを否定する人は、まぁ見たことない。

「その通り!」とうなずかれる人がほとんどなのではないだろうか。

 筆者は今回、この揺るぎないとも思える、真理とも思えるこの内容に、疑問を投げかけてみようと思う。ただ一言断わっておくが、「完全な間違いではない」 。見方によってはそう言えなくもないケースもあるので、ある条件のもとでの「部分的真実」としたいのだ。

 では以下に、どんな時でも「人が変われば世界が変わる」とは言えないことを確認していく。



 人の意識が変われば世界は変わる、と言える人には、心にもっているあるイメージがある。



●その人の心と、現実(他人を含む)とは連動している。



 例えば、歯車を考えてほしい。

 今、歯車Aと歯車Bが、噛み合った状態で静止しているとする。

 歯車Aを動かせば、噛みあって連動している歯車Bは、必然的に回転することになる。それと同じイメージで、人の心(歯車A)が変わる(動く)と、それに応じてあなたを取り巻く世界 (歯車B)も、何らかの変化を受ける(やはり動く)。

 具体的には、あなたが自己肯定できるようになり、気持ちが明るくなると、なぜか周囲にも笑顔が増え、あなたを取り巻く世界が何か変化したような感じを受ける、という場合である。

 逆もまたあって、あなたが自己や世界を肯定できず、信じられず疑ったり絶望したりという内面世界だと、そういうあなたが見る世界はやはり「理不尽で、殺伐としていて、自己中心や悪意の渦巻く、生きるに値しない世界」とまで感じるようになるかもしれないわけだ。



 ちょっと考えたらまぁ分かることだが、「あなたが変われば世界は変わる」というのは、現実問題から考えて文字通りの意味ではない。

 厳密には、こう言える。



●あなたが変わったところで、世界が変わるわけではない。



 あなた一人が明るくなったり元気になることで世界が変わるなら、こんな楽なことはない。世界は一瞬にして変わり、こんなややこしい世界ではなくなるはず。

 だから、先ほどのイメージ「歯車が噛みあって連動している」は、間違い。ふたつの歯車は距離が離れている。つまり、噛み合ってなどいない。

 連動していないので、あなたの心が変わっても、世界には何の影響も及ばない。あなたの内面が何か立派になったところで、それだけでは世界は米粒ほども変わらない。ただ、こうは言える。



●あなたの内面が変化し、その変化した心が何らかの「行動」を起こすならば、その「行動」によって、あなたの外の何かが「変わる」現象は観察できる。

 結局、世界を直接的に変えるのは思いというより「行動」である。思いは、それ単体だけではほぼ役に立たない。

 心が行動を生む、ということを押さえていれば、その意味で「あなたが変われば世界は変わる」と言ってもそう的外れではない。



 対「現象」や対「物質」ならば、行動がそれらを変化させるというのは分かりやすいだろう。持っているものを手放せば、床に落下する。粘土を指で押せば、押さえたところに穴が空く——。

 でも、ここでやっかいなのが対「人」の場合である。



 人同士は、それぞれの個はそれぞれの閉じた輪の世界(精神世界)で、すべてが完結している。決して、互いに直接干渉することはできない。

 あなたが、他人を変えることはできない。行動によって変えられるのは、相手が気まぐれにあなたの望む行動を取る可能性を高めることだけであり、それにしたって決して確実ではない。

 できたと思っても、それはそうできた、とあなたが解釈できたにすぎない。物語を作りやすかったにすぎない。あなたが変わっても、歯車が連動していないのでそうそう他人の気持ちなど変化しない。

 変化したらそれは他人が、あなたなど関係ない自分の意思で変化を選び取っただけである。



 スピリチュアルでは、「波動」という概念がある。

 それだと、どうしても「波動が影響を及ぼし合う」という話になりやすく、だからいい影響を他に与えるために、良いものと波長が引き合い、引き寄せられるように良い波動にしよう、という理屈になる。

 筆者の考えからは、「波動」の理屈は退けられる。

 物理界以外で「波動」を適用することには、少々乱暴である。

 だって、自我というシステムと解析ソフトで外界を把握しないといけない私たちは、状況を見誤る可能性が高い。自分の利益や好き嫌いが、波動を観察する上で変なバイアスになる。きらいなものは先入観で「波動が低い」と判断しやすく、好きなものはひいき目というものが邪魔をして「波動が高い」となる。

 ある人が「波動が高い」と観察されても、その人にまったく興味も関心も共通項も見いだせない第三者からしたら、そんなことはない。てか、そんな人どうでもいいわけである。

 本物の波動を発している、というなら、なぜ未だかつて「全人類に好かれる」人が出現しない? いてもいいだろ、だって紛れもない、誰にとっても正しく計測されるはずの高波動なんだから!

 どんないい人でも、偉大な人物でも、必ず誰かには好かれない。イエス・キリストなんて、処刑されたほどである。

 まさか、分からない人は「見る目がない」「感性が鈍い」とか言うんじゃないでしょうね? 一般の皆さんに向かって、それほど失礼な言葉はない。



●例えるなら、あなたは「色眼鏡」をかけるのだ。

 気分によって、意識の状態によって、色んな色の眼鏡をかける。

 その色眼鏡を通して世界を見るので、世界が変わったように見えるのだ。

 でも、実際の風景は青や赤や黄色に染まっているわけではない。変わったのは単にあなたの「捉え方」であり、依然として世界はそのままである。



 以前、私はバイト先で、仕事の仕方を間違って覚えていた。

 でも、たまたま問題がなくラッキーだったのか、単に発覚しなかっただけなのか、ずいぶん何も言われなかった。でも、三か月ほどたった時に、同僚の話から自分の勘違いが発覚した。

「自分の意識が変われば、私が投影し生み出しているこの世界も変わる」と思っている状態は、私が誤った仕事の仕方を「問題なし」と思っていた頃と例えられる。

 もしその考え方が、本当にそうだと世界を観察した上で思えるのなら、それはたまたまうまくいったということだ。ラッキーにも、問題が発覚しないで済んだということだ。

 でも、たいていは違和感を感じることになる。自分が変わったからといって、世界はさほど変わらないことを認めざるを得なくなる。そうなって初めて「自分の仕事の誤りに気付いた状態」になる。



「神との対話」シリーズの本のどこかに書いてあった。

 みんなでなくていい。世界の一定数の人の意識が変われば明日にでも、今からでも世界は変わる、と。

 そこで、意地悪なことを聞きたい。

 この本が出版されてベストセラーになって、ずいぶんの年月が経つではないか。で、未だ世界は皆さんがニュースなどでご覧の有様である。

 みんな、意識変える気ないんでしょ! やる気ないでしょ?

 世界は、このメッセージが発せられてからもずっと、大して変わらないのだから!

 そんな急激には変化しない、時間を必要とするなんて常識論はダメ。はっきりと「すぐにも変わる」って書いてあるから、逃げ道はない。

 まさかウソを書くわけないよね? これはもう、スピリチュアル実践者の怠慢、ってことでいいですか~?



 この非難から、スピリチュアル住人を救う理屈がひとつある。

 それが皮肉な話、今日の話題である。

 あなたが変わったからといって、世界はそう変わらない——。

 これなら、誰にも非はなくなる。だって、しょうがないんだから!

 なまじ「人が変われば世界が変わる」なんて言っちゃうから、「じゃあ世界が変わらないのは、あなたが変わらないからですね」という藪蛇な逆襲を受けることになるのだ。自業自得である。

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