極める
宮部みゆき原作のTVドラマで『ペテロの葬列』という作品がある。ジャンルとしては犯罪物になる。
独立した作品ではなくシリーズものの第三作目に当たり、主人公を含む主要登場人物は引き継がれている。小泉孝太郎が演じる杉村三郎、という人物が主人公。ドラマでは『探偵』の役回りである。
何か頼まれたら断れず、それどころか相手がそこまで頼んでいないことまでやってしまう
彼の尽力によって、難事件は解決され、何人もの人を救う。こういう人こそ幸せになるべきだし、良い報いがあるべきだ、と普通皆思うだろう。
しかし、この世界は決して「子どもに語り聞かせる物語」のようにはいかない。善が報われ、悪が罰せられる……そんなふうにばかりなる世の中ではないのだ。
杉村三郎には何の落ち度もなかった。しかし、彼は愛した妻に別れを告げられ、離婚。一人娘の親権も取れず、このドラマのラストで彼は傷心の旅に出る。
ただ他人のために、事件解決のために尽くしきった彼への天からのご褒美が、離婚であった。
この世界には、「陰陽」というものがある。
すべての事象が、陰(マイナス)とプラス(陽)という、一見相反する二つの極となる性質を持っている。そして、そのバランスを取る力が宇宙には働いている。
宇宙で、その陰陽の間でどちらかへの偏りが生じたら、元に戻そうとする「揺り戻し」という現象が起こる。ただここでやっかいなのは、私たちが住まうこの世界には「時間」という独特のローカルルールがあることである。
揺り戻しにも色々バリエーションがある。人間の目に「すぐにそれと分かるように起こる」揺り戻しもあれば、数十年かけてゆっくりと是正される「人目には、まるで起こっていないかのように見える揺り戻し」もある。
後者があるからこそ、時間を区切って考えることができる我々には、この世界には偏りがある、と観察される。その偏りは常に変化し、是正される方向に動いているのだが、自分の都合で「今」見えている部分だけを切り取って観察できる人間側には、瞬間風速的に「宇宙は不条理で不公平」と思えてしまう。
『極める』という言葉がこの世界にはある。
他に、「匠(たくみ)」とか「名人」という言葉もある。
皆さんは、これらの言葉を聞いて、そこに他の言葉にはない独特の「重み」を感じないだろうか? 言うなれば「簡単にはなれない」「生半可なことでは無理」「壮絶な苦労と努力を伴う」というようなイメージだ。
世に、沢山の「極めた人」というのはいる。過去の歴史上にも。その幾人かを無作為に取り上げただけでも、「ただ幸せだった人生を送った人は少ない」。
「極める」ということには莫大な時間とエネルギーを必要とする。そこだけに長時間向き合うことも求められる。極める道は言い換えれば、人生において「陰陽のバランスを著しく傾けさせる」こと。
当然、その一番の関心事以外に向ける関心とエネルギーは減る。問題は、当人ではない。当人はそれが本望なのだから。だが当人の配偶者や家族、周囲の人間が耐えられるかどうかという問題がある。
冒頭で紹介したドラマではまさにこのケースで、夫が他人を助けて探偵のようなことをするのを、妻は初めはいいことだと思い応援もしていたが、度が過ぎて家族と一緒にいても事件のことを考えて上の空であったり、挙句娘のピアノの発表会にせっかく来ておきながら中座する。
たまたま、依頼人の命が危ない状況だったという責められない理由はあるにせよ、そんなことで奥さんの気持ちが納得できるはずがない。気持ちにおいて、誰もがそんなに大人ではない。
つまり、「極める」ということは、かなり険しい道なのだ。
普通の人が望む種類の「幸せ」を逃す可能性がある道だ、ということだ。
極めた
知らない者に、言葉で説明してやれない境地。そこは、あなたの身の上上の不幸さえも忘れ去れる、恍惚の領域。ゆえに、極め人は時として平均的な人々を困惑させ、時には怒らせる。
幸せになるために何かを「極めよう」なんて、その何かに失礼である。何かを極めるなら、それ以外のものを犠牲にする覚悟であるべきだ。
PCのソフトを導入する時、画面に「同意する・同意しない」という選択がでてきませんか? 同意しないと、ソフトが使えない。それと同じことで、普通の幸せを捨てるというのは言い過ぎだが、それが二の次三の次でもかまわない、という条項に同意しないと到底何かの
幸せ、というものは目指してなるものではなくただ「観察できる自然の結果」である。極める道を目指した結果、それでもそこに普通の幸せもあるなら、それは(たまたま)そうなって良かったね、という話。
でも、その道の性質上、理解できない・あるいはついていけない人がふるいにかけられ、あなたの人生から愛する人が脱落していく可能性が少なくないので、そうなったら最初の覚悟を思いだせ、ということ。その人の「極めたい」が本物ならば、決してそういうことがその人を阻んだりしない。
筆者は、振り返って見ればその道を歩いてきたように思う。
これまで関わった人間は、両親と奥さんを除いて皆いなくなった。幼馴染、学生時代の友達、過去の職場での人間関係のすべてが消えた。私は残った10人にも満たない人間関係だけをすべてとして生きている。
思えば、多くを失った。確かにスピリチュアルな「悟り」というのは、ここまで頑張ったから来る、という性質ものではない以上、「極める」道と一緒にするのは限界はあると思ってはいる。でも、時々腹の立つことがある。
●幸せになるために悟ろうとする人たちに。
「ちょっとお、落語ってカッケーな~と思って、ちょっと入門していい?」
そう言って、落語界の大御所の門を叩いてみたらいい。アホか! と一喝されて叩き出されるであろう。
覚悟なく、極める道に足を踏み込むなかれ。
歌でも踊りでも、芸能でも音楽でも、適度に楽しむ分にはいい。幸せになるために、それらを楽しんでもいい。
でも、極めるなら話は違ってくる。やめてくれ。迷惑だ。
極める立場から、世界に言えることはこれだ。
●極めたい「それ」を一番の目的としてほしい。
「幸せになるために」それをするというなら、「それ」は二番だ。
それどころか、「それ」を単なる「幸せになるための手段」に貶めている。
極めようとする者にとって、それは絶対に「一番のもの」なのだ。その結果、「世に言う幸せ」が指の間からスルリとこぼれていっても、それでも本望。
逆に最後に指に残った「それ」で幸せになれるのが、極め人(きわめびと)なのだ。そうじゃない者は、悪いことは言わない。引き返しなさい。
だから筆者は、幸せになりたいから悟りたい、という人たちがキライだ。
そんなに悟りたいなら、「覚悟」を見せてほしい。
掛け持ち部活動みたいなことをして、幸せを得る手段程度の扱いで極めようなんざ、ムシが良すぎ。
かつてイエス・キリストが自分の弟子になる者達に「一切を捨てよ」と言った意味が少し分かる。イエスもまた「極める」タイプの星のもとに生まれた人物。自分が目指すものと同じものを目指すなら、その覚悟を見せよと迫ったのだろう。
決して、意地悪で「捨てよ」というのではなく、試金石なのだ。それができないくらいなら初めっからやるな、という。誰でも彼でも受け入れているヒマが極め人にはないので、それが大学受験のセンター一次試験みたいなもの。いい加減なのをふるい落して、数を絞る。
ただ、新興宗教が「捨てよ」という教えを利用して、財産を巻き上げる場合があるので要注意。これは、極め人が弟子に何かを捨てさせるのとは全然意味合いが違う。
寂しいことだが、悪ではないのに人を泣かせ、迷惑をかけるのが「極める道」である。いいことをしているのに、悪く取られることがある。攻撃されることもある。
それが納得できないなら、やるな。
極める道は、陰陽のバランスを一時的にとは言え崩す試みだからだ。平和・平安を第一として静かに生きている普通人は、極め人という高速回転の台風に吹き飛ばされてしまうので、関わろうとする人はよく考えるべきだ。一番試練を課されるのは、そういう人間の配偶者になる者であろう。
●中途半端に、興味本位で悟りなど求めないほうがいい。
気軽に悟りなど語らないほうがいい。議論しないほうがいい。
ハッキリ、やめたほうがいい。
でも、私がここまで言っても「求めることをやめられない」のだとしたら、どこまでいけるか、一緒にやってみよう。
その先に何があるのか、実に楽しみじゃないか。なぁ? 同志。
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