種の起源

 現在のところ、食物連鎖の頂点は人間である。

 人間は、地上のありとあらゆる植物や動物を食うが、逆に捕食されることはない。

 たまに、飢えたサメのいるところで運悪く泳いでいたり、何らかのアクシデントで動物に殺されることはあるが、それは食物連鎖上の捕食とは違う。

 あとは、SF映画でエイリアンに食われるとか、巨大生物に食われるとか、物語の世界くらいでしか、人間は食べられたりはしない。



 自然界の食物連鎖上、「罪悪感」というものは存在しない。

 ライオンやトラが、罪悪感を持ちながら狩った獲物をむさぼっているか?

 カマキリが、「ごめんよおお」と涙を流しながら小さい昆虫を食うか?

 人間だけが、多少想像力を働かせて動物の肉の不食運動をすることはあるが……

 筆者は、鶏も牛も豚も(時には羊さんなんかも)美味しくいただく。ステーキを食べながら、可愛いもとの姿の牛さんなど想像してブルーになったりはしない。

 ましてや、ドナドナなんか口ずさまない。



「種を越えている」場合、食べる側は食べられる動植物の痛みなど基本的にさほど意識しない。

 牧場で牛の親子の間が引き裂かれようが、食う側の人間は知ったことではない。

「親子丼」という、親(鶏肉)と子(卵)を同時に食するという残酷極まりなきことをしているのが実際でも、人は「あ~うめぇ!」としか基本的に思わない。

 種を超えると、他の種の気持ちは分からないようにできている。

 もし仮に、人が自分の種以外のすべてのものに同種に対して抱くのと同等の気持ちを持つことができてしまったら? 恐らく、人間の活動全般に支障をきたすものと思われる。破壊無くして、何の文化活動もできないからだ。

 木を切り倒す。釣った魚を切りさばく。それがかわいそうでいちいち泣いていたら、人類の営みは崩壊する。



 人間界には、無数の人間がいる。

 それぞれに、個性が違う。持っている内的世界が全然違う。

 我々は、「人間」という共通項により互いを仲間だと思っている。動物や植物よりも、よく分かり合えると思っている。たまに「動物の方が私の気持ちを分かってくれる!」と人間関係を逃避してペットに入れ込む人がいるが、それはちょっと頑張って抜け出すことをオススメする。

 私見であるが、こう考える。



●種が違えば他種の気持ちが分からず、他種の立場で考えることができない。

 でも、人間の場合はさらに特殊で、同じ人間だということはあまり関係がない。

 人が違えば、それは「種が異なる」ほどに違いがあると考えてよい。

 人の違いは、「種の違い」と同等である。それほどかけ離れているし、分かり合えない。



「発信」という行為をやっていて、づくづく思う。

 人間一人ひとり、他人というだけでそもそも「種が違う」ほどの隔たりがある。本当に、他者の立場に立てない。

 でも、この世界は方向性的には「良くなろう」としているので、皆頑張って他者の立場に関して想像をたくましくする。でも、そこは悲しいことに「種の違い」という壁が立ちふさがるので、おのずと限界がある。

 人間同士は、「分かり合えない」ことを基本として存在する。生物的にだけ同種だが、魂は全くの異種同士。

 確かに人間は、他の人間を食べはしない。この現実世界における生物的位置づけとしては同種であり、仲間だから。でも、肉を食わないってだけで、他種にするのと似たようなことしてるじゃん。



●精神的・間接的な捕食。



 例えば、他人を食い物にする。詐欺とか恐喝とか、何らかの形で人を陥れる。

 ケンカする。戦争で殺す。罵倒する。決して肉を食うということでなくても、相手に損害を与える・あるいは存在を消すことで自分が結果有利になるのであれば、それを『捕食』と呼ばずして何と呼ぶのか?

 我々人間の営みのほとんどは、小さな小さな「捕食」で埋め尽くされている。

 人間に関して言えば、あなたという存在はたったひとつしか個体が存在しない「種」だと言ってもよい。だから、あなた自身(種)が維持され、幸せに生きるために捕食をする。

 欲しいものを得る。好きな人と人間関係を持とうとする。好みの異性をものにしようとする。

 自分の立場の安定のために、自分の言い分を主張する。自分の内的世界を守るために、自分とは相容れない他種の言い分を駆逐する——。

 このようにして、あなたは朝から晩まで「たった一人しか存在しない自分という種を保存し、暮らしを安定させること」ばかりしかしてないはずだ。

 数えてみたまえ。思い返してみたまえ。自分の利益につながる行為以外のことを、あなたは何かしたか?



 例えば、ある人物AがBに殺されるとする。

 Aは、死ぬ瞬間にBを恨むだろう。こんなマネができるなんて、コイツ人間じゃねぇ! そんなことを思いながら。

 でも、これはAも知らない事実なのだが、Bは子どもと奥さんを人質に取られ、Aを殺さないとコイツらの命はないぞ、と脅されていたのだ。 

 ある地方都市に、大きなデパートが建つ。小さな商店は潰れ、デパートを恨む。

 でもそれは、小さな商店の立場からの都合に過ぎない。デパートに関わる人間にだって、家族がある。養う子どもがいて、面倒を見るべき老いた両親がいるかもしれない。「あんなデパートなければいいのに」という商店側の人間の願望が叶ってしまうと、それはそれでまた誰かを不幸にすることになる。

 でも、普段そこまで考える人はない。いちいち考え過ぎたら、生きることが楽しくなくなる。そこは、人間立場がまるっきり違う世界のことは鈍感になるようにできている。それだから、こんな世界でも何とか生きれているのだ。

 


 結局、どんなことをやっても言っても、まったく異種の魂のどれかの立場や利害とは対立することになる。宿命的に、生きているというただそれだけで衝突が起こる。

 衝突まではいかなくても、生活するということは思い通りにいかなかったり、イラッとしたりすることの連続であると言っても過言ではない。

 じゃあ、どうしたらいい?

 ……ごめん。どうしようもない。大枠では。

 幸い、あなたは何十億いる人間のうちのたった一視点でしかない。よかったね。すべてが見えなくて!

 見えたら、あのこともこのことも……知らなければ気に病むことのなかったすべての事情が分かり、あなたは優しさのゆえに自分の都合の良い「幸せな生」を貫く意欲が萎える。

 もし、すべての立場の「事情」が理解できてしまえれば、人によっては自殺するかもしれない。



●この世界で言う「個人の幸せ」とは、自分をめぐって起きている世界のすべての事情をある程度分知らないで済むことから成り立っている。



 要は、そのことを自覚し認めることである。でも、それでも生きようとすることである。

 その中で、あなたは「意味付け」「ストーリー付け」という武器が使える。それをうまく使えれば、身もふたもない真実にまみれたその中でも、幸せをつかめる。

 


 メッセージを発信している筆者も、所詮は一視点。

 それに色々な感想をもつ皆さんも、それぞれ一視点。

 結局、それぞれがそれぞれの「個人という名の種」の存続を懸けて、他種と戦っているのだ。時には、利害が一致する異種とも同盟関係を結びながら。

 だから、私はどんなに批判されても、いたしかたなしとも思う。誰も、私のしてきた経験とその感情体験を知ることができないから。逆に私もまた、他の一人ひとりの生活事情や人生の軌跡を知らない。執筆や動画配信などを介した交流といっても限られ、実際に会ったこともない人のほうが大半だ。分かり合えるわけがない。

 簡単に分かり合えるとしたら、それはただの利害の一致か、「トマトは赤い」 的な、普通誰もがそう思うような無難な話に関してだけだ。

 これまで述べたように、人同士であっても分離としての個が違えばそれはもう種の違いに匹敵する隔たりがある、ということ。逆に、分かり合えないからこそ、他の正味の立場が分からないおかげで、自分が気分よく生きることができている部分があるのだということも、悔しいけど認めよう。

 それで、いいんだよ。外の世界のことは、あなたが生きていく中で分かる中の情報で、十分だ。

 あなたに非はない。何か知らない真実があっての幸せでも、それはゆるされる。

 もしゆるされないなら、こんな世界在る意味がない。消えてしまえ。



 本来実在することのない「異質」な無数の違い同士が、あらゆるパターンで絡み合い、そこに醸し出される無限のドラマを味わいたかった。

 それこそが、『種の起源』 である。

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