霊的指導者の限界
キリスト教というものは、どうしてもイエスをすべての人々の霊的指導者にしたいようだ。
その根拠は、イエスは神だから。信者たちにとって神とは完全な愛であり、まったく欠けのない、間違うことのない存在だからだ。
クリスチャンは、聖書の全文を「御言葉」と呼んで尊ぶ。すべては神(イエス)の言葉であるから、「御」を付けてうやうやしく有り難がる。
はっきり言って、聖書の文章は玉石混交である。確かに素晴らしい言葉もあることは認める。でも、やはりくだらない言葉も存在する。
この世界はひとつの視点、どんなに素晴らしい人物のものであっても一人の物の見方では、とうてい説明をカバーしきれない。だってこの世界はすべての可能性、無限の変化パターンが存在する世界だから。
筆者は常々、どんなに優れた宗教だろうがスピリチュアルの教えだろうが、何か一番多数決で素晴らしいと認められたひとつのものが世界を席巻することはあり得ない、と言ってきた。
百歩譲って、歴史の中でそういうことが起こる現象が見えても、それは表面上のこと。遅かれ早かれその状況は続かないで覆される。たとえ政治や権力で統制しても、地下組織であるいは個々人の中で、違う思想信条は生き続ける。
だから、本当に悟った霊的指導者は「世界をまとめる」のに熱心にならない。
あくまでも自分は言いたいことを言い、世間の反応を操作しようとしたり、あるいは賛同者を増やそうとするような活動を展開したりしない。もしするなら、それは指導者ほどの視点を未だ得ていない弟子や部下が勝手に活動することによる「自然災害」のようなものである。
イエスはそれをされちゃったパターンである。本人は宗教を作る気などなかったし、その気のない証拠に書いたものを一切残さなかった。(神が「字が書けなった」という言い訳はやめてほしい)なのに、残された弟子たちは生前のイエスのことをベラベラしゃべり、それが伝言ゲームのように尾ひれはひれが付いてすごい話になり、挙句の果てはイエスに一度も会ったことがないパウロという人物が、イエス本人の了解もなしに「キリスト教」なるものをスタートさせてしまった。
どんなに素晴らしい個人であっても、その言うことは絶対に「完全」ではない。
何かの一部を言い当てたものに過ぎないのだが、人は自分にその時々でタイムリーに心に響いたものにすがる。「これだ!」とピンと来たものを採用する。
それが、個性の違う個々の人々によって皆違うから、無数の宗教やスピリチュアルが存在する。いくら一番売れている商品だからといって、それしか置かない百貨店なんてどうですか? いくら一番人気のあるメーカーだからといって、そのメーカーの商品しか置かない店しか世になかったらどうします? いくら、統計的に一番人気の「色」でも、その色の商品しか置かなかったら?
どの霊的指導者も、完璧ではない。その言うことは、どこかの誰かを救うことはあっても、人類全員のニードを満たし、全員を救うことなどない。ある意識レベルを越えた指導者なら、このことを良くわきまえているはずなのである。
読者の中で時々、これまで好意的だった方が急に——
「これまで楽しく読ませていただきましたが、この記事でやっぱりあなたは間違っていると分かりました。これまでお世話になりました」 そう言い残して離れていく人がいる。
筆者としては、これは別に全然問題ない。だって、私は「霊的指導者の限界」をわきまえているから。こちらで言っていることは、この無限に豊かな世界を切り取る上での一視点に過ぎない、と自覚している。その数ある視点の中でも、こちらはかなり「マニアック」だということも、言われなくても分かっている。
だから、読む人のほうがかえって「物好きね」とまで思うほどだから、愛想を尽かして離れていくくらい私としては何の不思議もない。
だから、ここを読むのをやめたからと言って、全然「何かを捨てた、やめた」と思う必要はない。もっと、軽いものだ。私にもその人にも、究極には何の問題もない。
ただ、そうは言っても、こちらのある物言いに引っかかって離れていく人に対して、ひとつだけ「勿体ないなぁ」と思うことがある。
●それは、あなたが「間違いだ」と思うだけであって、間違っていることが真理なのではない。言わば、この世界に間違いというものは存在しない。
「違い」「個性」「変化」というものがあるのみである。
これが分からないでここを去るのは、勿体ない。
正誤とか善悪という概念が、一番この世では扱いに難しい。だって、正味の真理や正しさなど存在せず「その時代によっての、個々の立場の都合によっての正しい間違い、善と悪があるのみ」だから。
だから、ここを読むのを卒業するなら、せっかくなのでお土産をもらっていってほしい。それは——
●筆者が間違っているから、もう価値なしとして離れるのなら、あなたは全然スピリチュアルを分かっていない。無駄だったということだ。
卒業に値するのは、『あなたの言うことも、色んなタイプの人がいるこの広い世界では必要としている人もいるのだろう。でも、私に関してはこれ以上あなたを選択する意味がなくなった。だから、これからは他のところに行ってみますね。ここまでごちそうさま!』という去り方である。
問題は、すこぶる単純。
気分が重要だ。ただ。読みたいか読みたくないか。
気が向くか向かないか。向くなら読むし、向かないなら読まない。
こんなシンプルなことなのに、人は皆格好つける。
これこれこういう理由で、こういうところに引っかかるので読みません——
人はテストで「解答とその理由を述べよ」なんていう文章題を解かせられまくってきたので、何でも明確な理由を添えれば格好いいと思っている。
はっきり言おう。その人が述べている理由に、去る理由の本質はない。
それは単なるカムフラージュ。
本人の思考もうまくとらえられない、実に膨大で細かい情報群のトータル的把握によって生じた「気持ち」が、「これ以上読みたくない」と判断した。本人が挙げている理由は、トリガー(引き金)にはなったかもしれないが、あくまでも理由のかけらでしかない。
むしろ最初に「もうやだな」という気分の方が先にあった。でも、理由なく「いや」って言うのも何だかなぁ……ということで後付けで理由を探したにすぎない。深層心理的には、そういうメカニズムである。
たまにあるケースだが、本当はズバリ自分の課題を指摘された、自分の見たくない部分を見せられたという状況なのだが、自己防衛システムがそれをもう見ずに済むように、逆ギレ的に「これが見当違いの理屈だ」「学ぶに値しない。くだらない」と納得することで、攻撃することで自分を守るという場合がある。
でも、それはそれでいい。それが最善だから起こったのだろう。
時ではなかった。時期尚早だった。出会い方がまずかったという状況だってある。
「間違い」という理由で何かを離れるのは、学びや気付きの観点からも勿体ない。
ただ、無数の選択肢の中で、どれが今の自分に心地よいか、という基準に常に素直であればよい。
くどくど理由はいい。たた、これだけのことなのだから。
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