批判する資格

 小中高の学生時代、学校で夏に水泳の授業があった人も多いと思う。

 さすがに高校生あたりになると「自己管理・自己責任」の域にはなるが、例えば小学生とかだったら、親に体温を測られてその結果熱でもあったら「今日はプールやめときなさい!」と言われて、見学になる。熱ではなくても、何らかの理由で健康を損なっている場合、やはりプール入りは止められる。

 ま、体が本調子でないのに、ハードなスポーツなんかすな! ってことである。そこを押して無理に参加しても、余計に体調を悪くする可能性がある。本調子でない分いつもの実力も出せないだろうし、やっても何もいいことがない。



 筆者は、『批判』というものは一種のハードなスポーツだと思っている。

 かなりの基礎体力が要るし、一流の技術も要る。熱があったり健康状態が良くない状態でやるものではない。

 たとえればそういうことだが、批判に取り組むなら「熱が平熱」「体調がいい」というような健康診断をクリアする必要がある。さて、その基準とは——



●幸せであること。



 健康が優れないのなら、プールどころの話じゃないだろ!

 まずは、体を治せ。話はそのあとだ。幸せでないなら、他者の批判をしている場合じゃない。

 まずは自分のことだろう? どう考えても。

 筆者は、色々な批判者を見てきた。彼らに対し共通に抱く思いは、「あんたら足元に火がぼうぼうだよ。それ消してからおいで。人を気にしてる場合やないやろ」というものである。

 何ら、言ってることが響かない。

 もちろん批判の中には、単なる揚げ足取りではなく、理論面だけを言えば説得力のあるものも存在する。でも、私はそこを重視しない。私はキャラ的な役割所のもつスペックとして、その人の綴った文章を読めばその人がだいたいどんな意識状態にあるのか想像がつく。

 幸せであるかないか。幸せでない人の言葉はたいがい、とげとげしいだけで何か痛々しく、腹立つと言うよりも哀愁を誘う。可哀想になる。

「幸せ」といってもこれほど個人で基準があやふやな言葉もないので、私がここで指す「幸せな状態」について定義しておかないと、読者は混乱するだろう。では、その定義を述べる。



●言動に落ち着きと余裕がある状態。

 どっしりと自分の軸に立ち、他の何か(例えば強い感情)に振りまわされていない。言葉(批判)の中にもユーモアや明るさが垣間見れれば、さらに言うことなし。



 これが、「プールに入れる健康状態」のOK基準である。

 この基準を満たさないのに、体調不良を押して参加するとどうなるか?



●批判してとりあえず言いたいことを吐き出すので、一時的なスッキリ感がある。

 でもその表面的な効果に騙されるとえらい目に遭う。せっかくの批判が相手に届かないばかりか、相手に刺さらなかった刃は犠牲の血を求め、その言った本人に突き刺さる。で、他者を批判したつもりが自分がいっそう重くなる。

 


 客観的にプールに入れない体調なのに、「私は大丈夫です! プールに入っても問題ありません!」と言い張るなら、「プールに入る」ということに意地になっており、自分を見失っている状態である。

 不健全な批判者のやっかいなところは、「自分はまともだ」と思っているところである。本当は、感情問題に振り回されて幼稚ぶりを暴露しているだけなのに、自分は誰よりも冷静で物事の本質を見誤っていない、と確信している。だからこそ、ものすごいことが言える。

 言葉数が増えると、その感情論はだんだんエスカレートしてきて、議論もずれていくが、本人はそれに一向に気付かない。ゆえに、あなたがそういうものに出会った時の最良の対処方法は、「相手にしないこと」である。

 批判への対処の仕方で、その人物が一流か二・三流か分かる。



●二・三流の対処とは——

 対応する価値のある批判を無視する。(下手に対処して不利になるのが怖いから)

 価値のない批判にいちいち反応し、ムキになる。(動機は焦りと自己保身)



 ちなみに一流はこの逆である。

 筆者が本書や動画配信なりで何かを批判する時、自らに課す健康診断をクリアしている。人のことをとやかく言う前に、私自身の人生のレースをちゃんと戦っているか? そして、幸せで余裕のある精神状態か?

 自分の中の「問題」を他者に引きずり出され、カチンときただけの「感情的ケンカ」に成り下がっていないか? 建設的かつ根拠がある内容か?

 さらに、たとえ自分の書くものが「批判」の文章であっても、結果的に誰かの心を軽くする(救うと言えば大げさか)結果をもたらすような内容だろうか?

 そういうことを自らに問うて、筆者はすべての言葉を発している。



 幸せとは、お金がむちゃ儲かって、人生やること成すことうまくいっている、という状態を指すのではないことくらい、スピリチュアルをかじる皆様ならお分かりだろう。筆者は、人が私をどう見るかは知らないが、主観では十分「幸せ」である。

 不幸の反対語としての、陰陽の陽としての「幸せ」だけのことではない。存在すること。この世ゲームにエントリーできたこと自体への、自然なる感謝。そこが、私には見えている。

 だから、筆者が本書で何かを批判するなら、それだけの責任ある手順を踏んでいるということ。読んで気に入らん、という感情反応程度でわめきたてるようなものとはわけが違う。だから、それを世に出したことでどんな反応が返って来ようが、覚悟はできている。



 視点が鋭いだけだけでは、ダメなんですよ。

 言ってることに理があるだけでは、批判に十分ではない。

 そこに、命への優しい眼差しと、激しい感情エネルギーの底に明鏡止水の境地をもっていることが望ましい。でないと、せっかくの批判がチンピラのケンカ程度の価値に終わる。

 主張には目を見張るものがあるのに、それ以外が残念な論客が多い。そう感じたので、今回の記事を書いてみた。

 あなた自身が幸せでないなら、どんなに正しい議論も無意味である。

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