推理小説のタブー

 ミステリー(推理小説)というジャンルで、いくつかやってはいけないことがあるらしい。ミステリー作家が作品を描く上での決まり事、というのか禁じ手というのか、そういったものだ。



①犯人が存在しない。(殺意の存在しない中で、様々な現象が複雑に絡み合った結果人が死んだ)

②自然が犯人 (風や雨などの自然現象)

③動物が犯人

④探偵自身が犯人

⑤読者に向けて「犯人はあなただ!」と言う。本の世界という次元を超える。



 禁じ手とはいえ、①はいくつか見たことがある。

 ④は、江戸川乱歩の『蜘蛛男』という作品で、事件を調査していた探偵自身が犯人だった。

 ⑤は、未だ見たことがない。そんなことやった馬鹿な(でもある意味すごい)人おるん?

 まぁ、推理小説でこういうの書いちゃ卑怯よ、というお約束事。サッカーで言えば「ハンド」、バスケで言えば 「トラベリング」、バレーボールで言えば 「タッチネット」みたいなものだろうか。



 実は、この我々が住んでいる宇宙という舞台……二元性幻想世界そのものが、この「禁じ手」によってできている。この世界は、先ほどの①に当たる。



●起こることすべてに、真犯人が存在しない。



 我々は、「この世界がひとつの閉じた輪である、それ自体がひとつの完結した世界である」と考えている。この世界の中で、すべての因果(原因があって結果が生じる)が成立してるように思っているが、それは違う。

 推理小説は作家が書いている。本の世界の中で何が起ころうが、すべて作者の意のままである。

 作中で、ある人物に殺意が芽生える。本の内容だと、その人物に恨みを買うようなことをした人物がいたことが、その殺意の「原因」だとは言える。

 だが、その殺意の究極の原因は? 作者である。作者が作中人物に殺意を抱かせようとしたからである。いくらお話の中で、それらしく殺意の芽生えた経緯が書いてあっても、作者が作品の辻妻が合うように考えた内容でしかない。

 最初に「殺意ありき(ミステリーだからね)」で、あとから作者がすべてを組み立てているにすぎない。つまりここで言いたいのは、この世界でどんな事件や現象が起こっても、その原因に当たるものが何か具体的に特定できるとしても、そのさらに究極原因となるとその世界の中には「存在しない」ということになる。

 だって、小説にとっては作者が「神」であるのと同じように、この世界の仕掛け人は我々が感知できない別次元にいるのだから。



 でも、すべてのことに「真犯人はいない。起こることに究極の原因はない」というのも不便だ。だから、あえて疑似的に犯人を作ってみよう。

 そうすると、こういう言葉がぴったりくる。



●この世界のすべての現象における犯人は、「空気」である。



 例えば、あなたが「今日は遊園地にでも出かけよう」とふと思ったとする。

 心理学的には、色々とそういう気持ちになった「理由」について、専門用語を出してあれこれ精神分析できることだろう。でも、悪いがそれらすべてはこの次元の住人の思考というおもちゃでの「お遊び」にすぎない。

 本当の理由など「ない」。だって、全部がこの世界を超えたところで決められているのだから。だから、あえて何かの原因を想定したいんだったら、頑張って言えば「空気」のせい。

 だって、遊園地へ行きたいような感じ(空気)がしたから決めたんだもん。その出所なんて、分かるわけないっしょ。



 例えば、戦争なんていうのもそう。

 日本の二次大戦突入に関しては、軍部の暴走がどうの、東条英機という名前を出してきて彼がどうの、とか。色々な分析が可能だ。

 しかし、分析に分析を重ねて個人(戦犯)にまで行き当たったとして、では肝心の本人に問い詰めたらどうなると思う? 「分からない」 となるはずだ。

 後で振り返って「あの時どうかしていた」と思うかもしれない。たとえその当時は「自信を持って決断したこと」であっても、じゃあその自信はどこから来たのか? そのように判断しよう、という思いさえも突き詰めたら結局「どこから来たのか分からない」。

 だから、すべてはこの次元を超えたシナリオ。シナリオの流れが醸し出す、空気。そう、だから戦争の一番の犯人は時代の「空気」。

 いじめの究極原因は、いじめっ子というよりは教育問題というよりは「空気」が仕掛け人。

 何かのブームや、有名人の人気なんかも「空気」。決して、努力が報われたとかその人が本物だとかいうことばかりが関係してはおらず、空気が味方すればどんなものでも力を得る。逆に空気が去れば、どんなに価値あるものでも人気を無くす。

 イエス・キリストを十字架につけた犯人も、空気。

 


 この世に、理不尽というものがある。

 なぜこうなる? どうして正しことが通らない?

 ちゃんとした誠意、努力が実らない? 不正や損得感情の力がまかり通る?

 すべてはプログラム。生々しい言葉で言えば「空気」。だから、空気を何とかしようと格闘しない方がいい。

 空気は何の干渉も受けず、勝手気ままに動く。我々は静観するしかない。受け入れるしかない。その空気の中で何ができるかしかすることがなく、その結果に関しても選べない。

 ちなみにここで言う空気とは、世にいう「波動」とは関係がない。あっちはこちらの意思次第で変えることができるらしいが、こっちの「空気」は不動だ。だって、宇宙プログラムから派遣された、プログラムが滞りなく行われるための『使者』なのだから。



 え、こんな理屈楽しくない、って?

 だから、スピリチュアルなんかすな! というのだ。

 精神世界を究極に突き詰めると、ほっこり幸せな内容に行きつくなんて、とんでもない甘い見通しだ。ただ、身もふたもない理屈が待っているのみである。

 ゲーム機をただ楽しんでおればよいのに、ゲーム機の中身が気になって外側カバーを外して機械の中身をむき出しにして見るが、わけ分からない。そして、その状態は美しくない。

 ゲームプログラムを学んでみても、ゲーム画面でのあの美しい風景も、「0」か「1」 かの区別によるデジタル情報の集積に過ぎない、と分かる。それを楽しい、ワクワクすると思えるかどうかは、人による。



 堺雅人主演のドラマ「リーガルハイ」の中では、いじめの原因を「空気だ」と分析していた。で、「その空気を打ち破れ」と。それが、いじめを始めあらゆる問題の解決に繋がる、と。

 筆者は、一般向けにはそういう「空気というものへの捉え方」でいいと思う。空気は変えることができる。その希望が、残された可能性が、人の情熱を掻き立てる。

 だから、あなたが何かにやる気を出せるのなら、頑張れる根拠となるのなら、「空気は変えられる」という思いは結構なことだ。

 でも、禅問答的なややこしい言葉になってしまうが——

 


●あなたが空気を打ち破り、空気を変えることができることも、決まっていた。

 その犯人もまた、「空気」である。



 つまり、変えられると思っている次元の「空気」は、下位概念。

 変えられない、結局起こるべきことを起こす「空気」は、上位概念。

 今回筆者は、後者についての説明をしたわけである。覚者が「大丈夫」「どうでもいい」「執着しない」と言う時は、この空気というものを肌感覚的に分かっており、そのコントロールを手放しており、サレンダーし逆らわないからに他ならない。

 だから私は、「覚醒した」と言いながら「引き寄せ」を言ってる人が理解できない。なぜ、その二つが両立するのか? 理解に苦しむ。まぁ、この世界はあらゆる体験の可能性を潰す場と考えたら、そういう人もいていいのか、となるが。

 本当に私の言う「空気」ということが分かれば、大概のことに腹が立ったり焦ったりしなくなる。たとえそうなっても、根が浅いのですぐに気持ちの方向修正が可能になる。

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