命の歌

 今回のテーマは、『命』。

 一部のスピリチュアルで、「私は死なない」と豪語するものがある。肉体は滅んでも魂は永遠、だから厳密には死なんてない、というよくある話ではない。本当に「肉体でも死なない」らしい。

 これまで、絶対的な常識として、誰も疑うことのなかったこと。

『死は、誰のもとにも平等に訪れる。例外なく、逃れることはできない』

 時代が進んだせいか、それすら「死は絶対だ、という思い込み(ブロック)だ、それさえ外せば死なない」とまで言う者が出現するまでになった。

 もちろんそれは寿命としての永遠に限られ、事故や災害など、自己責任ではない他からの干渉があれば別、ということなんだろうけど。要は誰かがそのスピリチュアル指導者を刃物で刺したり銃で撃ったりしたら、死ぬということだ。その一部スピリチュアルが言う不死とは、スーパーマンが弾丸に当たっても死なないような不死とは違う。

 フツーに生きている限り死なん、っていうことよね。でも筆者は、その発想に疑問を抱くのだ。



 今回扱う話題は、劇薬であることを知っている。

 この話題ほど、人によって思想信条・考え方が違い、その違いが他の種類の違い以上に見過ごせない性質のものはないから。これが違うだけで、友達にならなかったりするくらい。

 ここから述べることは、全体の半数以上の反感を買うかもしれない。でも、シェアは僅かでも、少なからぬ人が同意もしてくれると思う。

 その少数のために、ここから書いてみる。



 手塚治虫のアニメ映画に『火の鳥・宇宙編』という作品がある。

 その中で、ある大変な罪を犯した男が、宇宙でもっとも重い刑罰を受ける。その罰とは、言葉だけ聞いたら罰に思えないことである。



●この世界で永遠に生きること。



 一定の上限年齢(壮年)になったら、また赤ん坊に戻って、やりなおす。

 これを永遠に繰り返し、必ず老人になる前におり返す。

 歴史上卑弥呼をはじめ、数え切れない人々が望み夢見た『不老不死』。それが、与える側の火の鳥からすれば 「罰」 程度の価値だという。

 もちろんこのお話は創作だが、一抹の真実を突いているように私は思う。



 本当は、こんな風に言葉にして解説するほど実相から遠ざかっていくのであるが、そのリスクは承知で説明してみる。

 ワンネス(この次元を超えた、ただひとつの実在体)は、分離という幻想を産み出してまで、「個々という違った視点」からあらゆるバリエーションの体験を観ずることを実行した。

 分離したとはいえ、その「個」は元の正体は根源である。大元が、あらゆる観点を観ずることを望んだように、別れた枝葉である個もまた「あらゆる観点を観じたい」という欲をどこかに持っている。

 だから一定期間を楽しんだら、別の観点も見てみたい。他と交代してみたい——

 それで訪れるのが、「死」というきっかけであり、分岐点である。

 死とは、古来より恐ろしいもの、決して歓迎されざることとして認識されてきた。でも、大きな観点からはゲームシナリオ進行上の分岐点に過ぎず、何ら悪でも悲劇でもない。それを悪とし悲劇とするのは、その本人以上に「残された者達」 の方の都合である。



 この世界は、「有限」という幻想を味わうためのもの。

 始まりと過程、そして終わりという直線的限定的流れを体験するためのもの。

 本来は有限ではなく無限、そして直線ではなく円環。円だから終わらない。

 であるから、必然としてこの次元での生命(に見えるもの)は有限である。

 どこぞのベストセラー医者が言うように、命は死なない。でもそれは、文字通りの意味ではない。この世界の幻想視点において(つまり一般的な話としてということであるが)やはり死はある。

 つまり、肉体的生き死にということなら間違いなく存在するが、それは「正味の生命、有限世界を在らしめる大生命(あえてそう名付ける)には何の打撃も問題もないこと」。大元の根源的命はびくともせん、ということである。

 でもそんな根源論は、将棋の駒として盤上で危険にさらされている我々には、あまり助けにはならない理屈だ。そんな確かめようもない空手形、目の前の恐怖をカバーするほどの力も魅力もない。

 そういう根源的教えで喜べるのは、将棋でいうと「王将」や「金将」。歩兵とか角飛車が前線で頑張ってくれるので、自分にはすぐには危険が及ばない。そういう守られた環境にいて余裕のあるセレブが、きれいな言葉が並んだスピリチュアルに心酔できる。



●無限・永遠・絶対 → 不死

 有限・一瞬・相対 → 死



 この組み合わせが、自然のことわり

 それを、こうしようってわけでしょ? この世界で不死を目指す、ってことは。



●無限・永遠・絶対 → 不死

 有限・一瞬・相対 → 不死



 魂の永遠性を信じるのはまだマシだが、入れ物としての肉体の永遠性を説くのは、話として破綻している。それは、この世界がいったいどういう世界かという現実(ゲーム上のルールブック)を無視した理屈だ。

 しかも罪なことに、魂的に幼い人々のもつ死への恐れを巧みにくすぐっているので、世間ではウケける。オオッ、そりゃ福音だ! 感じで。だって、死ななくていいんですぜ?

(良心的に考えて、スピリチュアル指導者に確信犯的詐欺師はさすがにいないだろうと思うので、悪気なく真面目に言っているものと思われる)

 筆者が本書で述べているような内容よりもはるかに人気を博するだろう、うらやましいことに。卑弥呼が、金に糸目を付けずに不老不死の薬を求めたように、お金のある人は超高額を払ってもそういう「死なない」ことを言うセミナーに行くことだろう。それはそれでいいと思うが、筆者は遠慮申し上げる。

 


●ある程度満足したら、死んでいい。筆者はそう考えている。

 永遠にこの個体で生き続けるなんて、とんでもない!

 筆者は今の自分以外の人生シナリオも、体験してみたいぞ。

 ちょっとさ、当たり前に考えてみようよ。その『あなた』が、ずっと何千年何億年生きるとしたら?

 ずっと、あなたという個性、あなたという自我と認識ソフトで行くんよ?

 交代したいじゃない。代わりたいじゃない! それとも、あなたは永遠にそのままの自分でいたいと100%思ってるって絶対保証できる?

 自分の人生では知り得なかった、他の個の視点も演じたいじゃない。



 永遠の(この個での)命にあこがれるのは、まだ生き切っていないから。

 することがあるから。今死ねないから。だからこそ、残り時間ができるだけあるほうが安心する。それが永遠だったら、なお余裕のよっちゃんだ。

 でもさ、十分味わったら飽きるんだよ。

 飽きるというのは正確ではなくて、実際は 「もっと楽しそうなことに目が行く」 と言ったほうがいいかも。だから、命は循環する。そして物語は語り継がれていく。

 筆者が思うに、「自分はずっと死ななくていい」と豪語するのは、今生活が安泰で幸せな人だけ。人から評価される実力者であったり。そういう人は結構自分好きだから。自己肯定感が高いと、永遠にこの自分でいいやという浅い思い込みができる。

 そしてそういうやつらは、他者の立場を全然考えていない。

 例えば、障がいを持たれた方。慢性的に病気 (持病)を抱えた方。自分の生まれ持った身体的特徴で、少なからず苦労をなさってきた方々。そういう肉体的側面でなくても、大変なご事情を抱えている方——

 命は本来死なない。死ぬと思ってるから死ぬんだ、なんて言ってしまうと、死ぬ人が何か「十分でない・ちゃんとやっていない」的な印象を与えてしまう。そのことを知らないで損している、みたいな。

 


●恐らく、この自分で永遠に生きたいと願っている人は少ないと思う。



 皆さんは、どうだろうか? 誰もすべての人にアンケートなど取ったことないので、正確なところは分からないが。

 筆者は、自殺願望はないにせよ、きりのいいところで別ゲームがいいなと思う。 

 絶対に死なない、というのはまだ死が現実問題として遠い先の問題だから憧れることができるだけなのだ。魂の旅の満了した(あるいはしかけた者)なら、肉体的不死の問題など「どうでもいい」となると思うんだけどなぁ。だから「覚醒」という基準は人によって全然違うな、と思う。



 私は別に、「不死」を否定はしていない。

 結構なことだ。1000年でも1500年でも生きればいい。

 でも、そういう選択をする人たちに一言言い残してよかですか?



●いつかは、ちゃんと死ね。



 大昔、こんな記事を書いた覚えがある。

 将来、人間は意識の目覚めとともに、なかなか死ななくなる。死ぬ時は、災害や犯罪などの不可抗力(それだってかなり減るかも)以外では死ななくなる。



●だから、死は 『選択制』 になる。



 この体でずいぶん生きたなぁ~

 どれ、そろそろ別の旅に出たくなってきたな。

 それを受けて、本人が周囲に相談し、合意までこぎつける。

 だから、お葬式は「死んじゃった」という悲しみではなく「行ってらっしゃい!」 という出発式、歓送会みたいな感じになるのでは、と。お疲れ様~ってね。

 でも残念ながら、皆さんが先ほど紹介した 「死なない」と豪語している人でもない限り、みなさんの生きているうちにこれは実現しないと思います。(笑)



 もちろん、生きたかったらずっと生きてくれていい。

 でも、この世界は「始まり」と「終わり」がある世界なんだ。それを無視していると、あなたはこの幻想界の命としてかなりすわりの悪い思いをすることになる。

 だから、苦しいと半分神様みたいになる(高次元)のを目指すとか、どこかで妥協してズブズブ肉体人間から脱却しないと、やってられなくなる。

 可能性としては望むまで生きられるようにはなっても、やはりけじめというか、ピリオドとしての「死」は必要だってこと。



『神との対話』という本の中にも、そのことが書かれていたように思う。

 もうその本は今筆者の手元にはなく、確認しようがないのだが、確かこう書かれていたように思う。



●私(神)は、たかだか100年ほどで人間が死ぬようにはつくっていない。

 メンテナンスさえきちんとすれば、『半永久的』にもつようにしておいた。

 


 ここで注意したいのだが、神との対話の神は「半永久的」という言葉を使っていた。半ということは、裏返せば完全永久的ではない、ということだ。

 スピリチュアルで永遠という言葉を使う時、それはこの次元を超えた話でしかない。この物理宇宙幻想世界の「個としての命」が永遠というのは、ズレた認識だ。

 むしろ、個としてどこかで一旦完結する命のサイクルが、永遠に繰り返されると見る方が妥当だ。その意味でのみ「永遠」なのだ。

 限りあるからこそ命を燃やし、真剣(マジ)に一期一会の時間を生きることができるそれがこそ、『命の歌』を歌う、ってことだ。



『101回目のプロポーズ』という古典名作ドラマで武田鉄矢が、走行するトラックの前に立ちはだかり「僕は死にましぇ~ん!」と叫んだ。

 それは、本当に不死身だということではなく、それくらいオレの思いは本気だ、ということ。オレの思いは、(ひるがえってあなたの命も)この程度のことで砕けるほどヤワなもんじゃない! という表明。

 不死、ということの本質は、納得いくまで情熱をもって生きようとすることであり、決してただ死なないことではない。情熱をもって生きられくなるまで生きたら、その時こそ死ぬ時だ。

 でも、魂の満了していない者の視点では 「情熱をもって生きられなくなる時が来る、な~んてこと自体が決めつけです! そんなことは起こりません!」と豪語するのだろう。でもあなたがそこまで徹底的に生きていないから、そんなことが言えるんですよ。

 四の五の言わずに、今「命の歌」を歌え。

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