ピンポイント・ラブ

 大昔に『3年B組金八先生』という、王道熱血教師ドラマがあった。

 当時人気が出過ぎて、まるで金八先生のセリフを道徳の教科書の内容のような扱いで捉える人もいた。

 確かに金八先生の『語録』には、的を射たものも多い。しかし、筆者の立場的には、それはちょっと違うぞ? と言いたいものがあることも確かである。

 例えば、最も有名なやつ。「人という字は、人が人を支えると書いて……」については、「リーガルハイ」というドラマで、堺雅人演じる主人公の弁護士がこう皮肉っていたセリフのほうが解釈としては好きだ。



●人という字は、一人の人間が股を広げて踏ん張って立っているところを描写した象形文字で~す! 他人なんて最後には頼りになりません。最後は自分で踏ん張らないといけない、という戒めなので~す!



 お互いが支え合っている、も結局他人は頼りにならず最後は自分、というのも、実は同じ物事の両側面である。視点を変えただけで、実は同じ「この世界の真実」を言い当てている。

 薬は、症状に応じて処方が変わるではないか。それと同じで、その時々においてこの二つの内どちらを意識のメインに据えるかは、その人の状況による。

 スピリチュアル実践者には夢見がちな人が多いので、目を覚ましてもらうためにも後者の発想をオススメする。

 ちなみに今回メインで取り上げたい内容は、金八先生の次の言葉である。



●日頃からお年寄りを大事にしていたら、敬老の日なんていらないんです!



 これと同じ理屈で、実に色々なことが言える。

 普段から人々の労働に感謝していたら、勤労感謝の日もいらない。両親を普段から敬っていたら、父の日も母の日も殊更につくらなくていい。

 そして、この構造の考え方は、スピリチュアルにも飛び火する。



●常に今ここにおいて、その瞬間を味わい楽しみ続けられていれば、特別な刺激(お正月とかクリスマスとか、特別な楽しみ事や刺激)に依存しなくていい。

 そういうものがない時は退屈、などという発想にはならない。アップダウンが激しい喜びや楽しみではなく、『穏やかな』幸せがずっと続く。



 これは、一部スピリチュアルによく見る考え方である。

 局部的な強い刺激で喜ぶことを、健全ではないとする。その強い刺激が悪いというよりも、そういうものを喜んでいるとそれが満たされていない時間との「比較」という罠に陥りやすいことを問題視したものである。面白い、つまらないという風に人生の時間への評価が二極化するからだ。

 どんな「今ここ」もかけがえのない時間。そのことをゆがませる、刺激の多寡による「良し悪しの評価」にごまかされて、せっかくの今を大したことのない時間であるように思わせられる——。



 敬老の日、というものをわざわざ設けることでピンポイント的に意識するということは、「普段はできていない」ことを認め、また強調することにもなる。

 下手をしたら、敬老の日を祝ったら何か「ひと仕事した」気になる。ちゃんとクリアした気になる。で、次の日から以前と変わらない意識状態でまた過ごし、次の敬老の日がやって来た頃にまた思いだす。「そうだ!お年寄りは大事にしなきゃ!」

 このように、何かをピンポイントで特別視すると、常にそれを保ち続けることの障害になるという考え方があるわけである。

 ここが、金八先生が敬老の日なんか要らない、と言ったことの根拠である。

 だから同じように一部のスピリチュアリストたちが 「幸せ、というものを何か特殊な強い刺激だけだと勘違いする」ことへ警鐘を鳴らすのである。



 でも、これらの考え方に対して私が持つ感想は——



●そんなカタいこと言うなよ!



 幸か不幸か、人間は表向き「忘れる生き物」である。

 本来魂に忘れるというスペックはないが、この幻想舞台上では限定的に可能になっている。ま、顕在意識限定だけれども。

 さして関心のないこと、自分の人生の問題において重要度の低いことは、どうしても意識のメモリーに登ってきにくい。おじいちゃんおばあちゃんと同居しているとか、介護しているとか、現実的にそういうことに直面しているのでもない限り「敬老」について掘り下げる機会はほぼない。そういう人にとっては他人事であり、「敬老の日」という国民の祝日となって強制的に意識させられるのでもない限りは「おおそう言えばそうだった」ってものである。

 別にいいじゃないか。

 人それぞれで違う人生だし、当然「何が課題の焦点か」も違う。

 ある人の人生においては重要課題かもしれないが、別の人にとってはそれほど重要に関わってくる問題でないこともある。でもさすがに、ちょっとは意識した方がいいこともあるから、宇宙の流れとして全体に目を向けさせる機会を定期的につくる。それが年に一度の「敬老の日」だったりする。



●特別な記念日があって、いいじゃないか。

 特別に面白い刺激を楽しんでも、いいじゃないか。



 例えば、ディズニーランドに行った時は、普段とは違う心境になりません?

 比較で言うと、近所で遊ぶよりももっと異質な、特別なワクワク感がある。だって夢の国にいるんだから! その強烈な刺激を心から喜べないなど、勿体ない。

 筆者は思う。

 敬老の日なんて特別に祝ってしまったら、その他の日であまり意識しなくなる、というのは論理の飛躍ではないかな。勝手な因果付けじゃないかな。



●敬老の日を祝うということと、普段からお年寄りを敬うということは——

 はっきり言って別問題。なぜ、わざわざ両者を結び付けようとする?



 別問題なので両立する。

 普段からお年寄りを敬い、そして敬老の日はさらにヒートアップして祝うだけ。

 


 × (普段お年寄りを敬っていない) → ○ (敬老の日くらいはお年寄りを敬う)

 ○ (普段からお年寄りを敬っている) → ◎ (さらに盛り上がってスペシャルな形で敬う)


 

 別側面から言えば、「特別な日を作ったからといって、強い刺激を喜びとしたところで、だからそれが即問題となることなどない」。

 強いピンポイント的刺激を作ったから、そっくりそのままそれ以外の時間の評価が下がる、というのは暴論だ。そうなることもあるだろうが、絶対的因果関係として公式になるようなものではない。

 ディズニーランドへ行ってめちゃんこ楽しかったら、来年また行くまでは決してその日に勝るような幸せは味わえなくなる、ということはないでしょ? そんなことがあったら大変だ。

 刺激の程度以上に重要な要素は、「刺激のバリエーション」である。

 ディズニーの刺激は強烈でも、帰ってからの日常が落ち着いたものでも、味わいの「ジャンル」が違うのだ。アクション映画の後の恋愛映画もいい。美味しいステーキのあとのデザートやコーヒーもいい。

 だから、強烈な刺激として認識されることがあってもいいのだ。すべての物事は、一直線上に並べて比較できるものではないのだから。一期一会のオンリーワンなものなのだから。



 本日言いたいことの要点としては——



●特別な日を作って祝うからといって、その他の日で祝わなくなるのでは、というのは命を信頼しないことから来る「恐れ」の発想である。

 敬老の日をつくろうが、母の日を作ろうが、いいではないか。特別な日の設定があるのは、この世界を味わい楽しむ上での必須アイテムと言ってもいい。よって、普段から敬う心があれば敬老の日などなくていい、というのは無粋な暴論である。

 特別な日を喜び、楽しもう。普段できない娯楽を楽しむ機会があれば、恐れず思いっきり楽しもう。刺激を喜んでしまったら他が色あせる、なんて神経質すぎる懸念だ。



 我々は、自他や空間という概念がある遊び場に、ピンポイントでの刺激や強烈なエネルギーを楽しみに来たのだ。

 その本分を忘れて、過度に本来の正体(完璧)に近いものを求めてどうする。

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