真理はシンプル、のウソ

 スピリチュアルの世界でよく言われることのひとつに『視点・解釈をを変えろ』というのがある。

 一時期、この種のメッセージには筆者も力を入れていた時期があって、「ものの見方がすべてなんだよ~!」みたいな論調で語っていたものだ。

 変な話だが、今なら言える。「ものの見方がすべてではない」と。



 例えば、日常の中で「カン違い」という現象が起こる。

 その人の体験や感覚を根拠として、勝手な想像と解釈をしてしまい、それを用いて言動を決定してしまうことによる。でも、ここでひとつ考えてみたい。カン違いというものが発生できる条件がひとつある。



●安全が守られていること。



 カン違いが滞りなく、スムーズにできる安全な環境が守られていないといけないのだ。言い換えればその瞬間というか、短期的に被害の襲わない状況でないとカン違いできないのだ。

 例えば、会話上の言葉の捉え違いなんて、二人が安全に会話しているという環境が守られていて起こり得る。また、カン違いのせいで被害が及ぶ場合も、そのタイミングは会話をしたその時すぐではない。ある程度の時間性を経た「あと」になって、ああカン違いのせいでこんなことになってしまった!と分かるのだ。

 つまりは、「カン違いできる時とできない時がある」ということだ。



 では、「カン違いできない状況」とはどんな状況か?

 目の前で、自分の家が燃えている。何度も目をゴシゴシこすってみる。見間違いでなかろうか、と。

 現実だと思いたくないので、何度も確認する。でもやっぱり「あたしんち」だ! これは、カン違いしようがない。

 あと、大けがをした瞬間。

「イテッ!」その痛みを、解釈によって消せる人がいたらすごい。これも、やはり誤解できない。痛いものは痛い。

 ではこれらの実例を踏まえて、カン違いできない状況の定義をば申し上げよう。



●目の前に、具体的脅威が迫っている時。

 まさにそれが襲いかかっている最中。



 例えば、闘牛というスポーツ(?)を思い描いていただきたい。

 闘牛士が持っている「ヒラリマント」(ドラえもんの道具みたい……)の大きさは、牛をかわすのにちょうどよい大きさになっている。

 例えば、あり得ないが「ネコをかわす」ためだったらどうか。ネコをかわすにはサイズがでかすぎる。だって、もともと牛を想定して作ったものだから。

 同じ理屈で、象をかわそうとしたら? 象は牛よりもはるかにサイズがでかい。よって、闘牛用の赤い布など象にしたら何ら「気になる」対象としては認識されない。



●今のお話の要点は、TPOに応じて道具も変わる、ということ。

 状況が違えば、それに対処する手法も千差万別だということ。



 だから、目の前に具体的脅威が襲ってきている場合、解釈の変更による「幸せゲット」はほぼ不可能。それができるのは、かなりの魂レベルと気付きをもち、覚悟をしきった腹の据わった人間だけである。その人は、肉体の生死を超えたところを見つめることができる。

 でも、そんなことは、皆が皆できるわけではない! その、人間の出来過ぎた映画の主人公のような気高さを万民に要求するのは、酷だ。

 ほとんどの人にとって、目の前に津波や地震、火災が起こった時にできるのは、解釈や視点の変更によって「なんくるないさぁ~」と思うことではない。目の前の現実を、認めて受け入れ、その上で可能な限り現状に抗いもがくことしかできない。

 目の前の現実が「否定できないものである」とした上で、じゃあそれを受けて自分はどう思うのか、どういう振舞いをするのかだけが問われるのである。

 死の脅威が迫っているのに、解釈を変えて平安になろうなんて、覚者(自称ではない)がするのでなければ喜劇でしかない。

 だから、我々は状況に応じてツール(道具)を使い分ける必要があるのだ。



 目の前に具体的脅威がある →   ×解釈の変更 ○現実 (ありのまま) の直視

 すぐに脅威が襲うわけではない → ○解釈の変更 ×現実 (ありのまま) の直視



 例えば、「今貧乏だ」という状況があったとする。

 当事者は働いており、決して怠けているわけではない。

 だったら、「このまま一生貧乏なままなのではないか?」という恐れにとりつかれそうになった時、こう解釈し直すこともできる。「未来は、何が起こるか分からない。もしかしたら、大逆転もないとは言えないじゃないか! 最後まで勝負を捨てず、人生を生ききってみよう!」と。

 これだって、今貧乏には違いないけど「明日飢えて死ぬ」ほどの切羽詰まった状況でないからこそ、できる解釈である。多少の余裕がないと、希望というものは持ちにくい。

 慢性的な病気を患ってベッドに伏している時、「いつか治ることもある!」と信じ希望を持てるのも、すぐに死なないから。考え事をできる余裕があるから。

 これが、激痛が走り悲鳴が上がりそうな切羽詰まった状況なら、できることと言えばそれでも可能性の低い希望をとやらをもつことではなく、「覚悟を決める」ことくらいしかできない。あるいは、結局そうなった不運な自分を呪うか。



 スピリチュアルの世界でよく言われることのひとつに、「真理はシンプルである」 というのがある。

 世の中は複雑なように見えるが、それは人間が思考でもって勝手に複雑にしているだけ。人生の、宇宙の本質を知ってみれば、真理は実にシンプルなのである——。

 筆者は、現時点でそうは思わない。この宇宙を、シンプルに考えたいスピリチュアリストたちに言いたい一言は——



●この単細胞め!



 ……である。

 これまで述べてきたように、物事の対処にはそれにあった方法がちゃんとある。

 戦闘機で敵を撃破するのに、遠方の敵に有効なのはミサイルだが、接近戦ではバルカン砲などの機関砲が有効である。車の運転でも、馬力が要る時にはローギア、速度がある程度出ていて、さらに流れに乗ってもっと速度を出したい時にはトップギア。

 彫刻師も、どこを掘るのか、大まかに削るのか細かい作業なのかで彫刻刀がちがう。画家も様々な形状の筆やペンを使い分ける。

 スピリチュアル実践者が言うとおり真理はシンプルだとしても、それは別次元の話だ。真理はこの世界ではなく、世界を越えたところにある。そしてそれに直接触れることは、今の状態の私たちにはできない。

 ここ、ヒューマノイド型知的生命ゲームの舞台である物理宇宙世界は、「複雑さを味わうための場」。だって、単純だったら面白くないでしょ。祭りの露店とかでくれそうな、幼児向けのハンディパチンコゲームを思い出してみたまえ。(原価5円もしなさそうな)あれ、飽きずにどれだけやってられる? 人によっては1分持たないうちにイヤになるだろう。

 何のためにこの世ゲームをしに来たのか? 色んな方法や可能性を試さなければならないからこそ、やりがいがある。取り組む楽しさがある。

 


 ということで、今日言いたい要点はふたつ。



①解釈や視点を変えることで得られる幸せには、限度がある。

②この宇宙は、細かいルールに規定された、複雑かつ面白いゲームだということ。



 だから、解釈を変えても逃げにしかならない状況もあると覚悟せよ。

 現実をドンと受け止める勇気、あるいは覚悟も大事だということ。

 また、すべてをシンプルに考えよというスピリチュアルを過度に信じるな。

 そう主張する連中は、たまたまそれでうまくいっているから調子に乗っているに過ぎず、あなた個別の特殊事情など知ったこっちゃない。だから、どんなに高額な料金を払おうが最終責任なんか取ってくれないし、その指導者の言う通りしたって、同じようになるかというとその可能性は決して高くはない。

 そのことに、多くのスピリチュアル実践者が気付かれますように。

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