批判の王道
今回のタイトルを読んだ読者から「批判に王道なんてあるのか?」とまず聞かれそうだが……
あるのだ。
批判そのものがいけない、そもそもする時点でアウトという考え方の人は、帰ってくださんし。ここからの文章を頑張って読んでも、さして学ぶことはないし、何より時間のムダです。
筆者の書くメッセージの内容によっては、他の色々なスピリチュアルを批判することがある。
そういうことをするのは別に私だけに限ったことではなく、他の発信者でもそのような「他スピリチュアルの批判」がウリのものがある。最近、筆者は幾つかその手のものを読んでみた。
中には、単にケチを付けているというレベルを越えて「なるほど」と思わせてくれるクオリティの高いものもあった。ただ、筆者と同レベルでの批判スタンスでいる者は少ない、と思った。
少ないというより、ほとんどいない。では批判記事を書くスピリチュアル発信であることが同じでも、筆者と他との違いは一体どこにあるのか。
●他がおかしい、ということを述べた後で、自説こそが正しいという結論。
本当によく勉強しており、説得力のあるスピリチュアル批判は結構ある。いちいち「なるほど」「んだんだ」と思って読むこともある。
でも、クロージングが「残念」なことが多いのだ。
だから、私が言っていることが正しいんですよ。他が間違っているし勘違いなので、私こそが健全で正しいスピリチュアルを伝える活動をしているんです!
是非、このセミナーコースに、この学びに来ませんか?(別の言い方で言うと、カネを使え)もうまがいものはやめて、共に世界の正しいスピリチュアリズム発展のために頑張りましょう! と言う。
●いくら批判が的を射ていてもっともであっても、最後は自分を正しいとし、間違っているものよりもこちらへ来いというオチになるなら、台無し。
まぁ、「批判」というもののそもそもの性質が「自説の正しさを立証する上でのひとつの手段」だから。結局こちらなんだぞ、というメッセージになるのはある意味仕方がない部分がある。
でも、筆者が何かを批判する目的は何かというと——
●それは違うぞ → だからこっち ではない。
それはおかしい、と提示したあとに、だからこちらへどうぞ、と狭い路地に連れ込んだりしない。ひとつの呪縛を説いたら、あとは本人の選択に任せる。
私の批判の目的は、こちら(一方向)へ誘導することではなく、他の可能性に目を開かせることで選択の可能性を広げるところにある。そこで止める。
そりゃ、こちら寄りになってくれたら人間としてうれしくないわけはないが、決して要求しない。だって、正しい間違っているを越えて何を選択し味わおうとしても「自由」だから。
多くの批判者は、良かれと思って、善意で頑張っている。
まがいものものに騙されて洗脳されて、遠回りしないように。だから、正しい道を知った自分こそが、皆さんを導いてあげようと。
こちらへ来なさい。そして私のもとで学びなさい——。
これだったら、偉そうなことを言ってるが「その人物がまがいものとするやつらのやっていることとそう変わらない」。他よりこちらが本質であり、正しいとするのはどこでも思ってることだから。
世のスピリチュアルの多くは、言っていることのレベルの差こそあれ「自らを他より正しい、あるいはマシ」とする点において、五十歩百歩である。
筆者は、本書をはじめとする自らの発信メッセージ全般を、決して万民に通用する真理などではなく、気に入って採用したい者だけがが愛好する『クラブ活動』のようなものとして位置付けてきた。短く乱暴な言葉で言い換えれば「好き好き」。
これを、快く思わない人がいるだろうことは理解している。だって、一般的にスピリチュアルとは生き方の根幹、宇宙の真理や究極存在にまで関わる内容だから。他のどんなものより大事で、真剣になるべきものという思いを、熱心なスピリチュアル実践者は持っているのだろうから。
でもね、皆が皆あなたがたみたいにね、スピリチュアルに入れ込めるわけではないの。だってこの世界は、分離の世界。個性(個別性)と差異(違い)の世界、また可能性のすべてを味わう世界。
だから、いくらスピリチュアルが示すのが素晴らしい基準でも、すべての人がそうはならないし、また目指すことがよいとは限らない。
あくまでも、個人の選択の問題である。そしてそれは何者にも縛られず、各自が自らの判断で行う権利を有している。
自説に自信を持っている人ほど、著書やブログ内に書かれてあるプロフィール(経歴)がすごい。
これこれこういう修業をしました。こういう学問をちゃんと収めました。
こういう偉大な師に師事し、何年活動してきました。
それでもって何人を、真実の悟り(あるいは霊的成長)に導きました。そして今では国際的な組織となり、今も広がりを見せています——。
●だから、それが何か?
筆者、どちらかというと現実に重きを置く方である、スピリチュアル発信者の中では。だから、具体的な実績や経歴、積み上げて来られたものにはちゃんと敬意を払う。でも、だからってその使い方はど~かな……
自分に惹きつけるための道具にしちゃう? まぁ、この世界ではメシ食って行かないといけないしね! どんなスピリチュアル的きれいごとを言ってもさ。
だから、客寄せのために素晴らしい経歴をウリにするのは当然ではあろう。でもな~、それをやってなお自説が批判対象より正しいみたいに言うなら、あんたも批判対象も同レベルだよ。
オススメなのは、まずはまっとうな批判だけする。その後は、だから相手は間違っているとかくだらない・サイテーだという価値評価は絶対述べないで、また自説への誘導もナシで、読者に次のように勧めるのだ。
「わぉ、それじゃなくてもいいということが分かったら、選択の幅がかなり広がったよね! さぁ、次はどれにする?」これが大事なのだ。
確かに、私は批判の後にそれなりの『代案』を示すことはある。でも、その代案こそが正しい、というニュアンスで言ったことは筆者はない。
それさえもあくまでも選択肢のひとつであり、採用してもしなくてもどうでもよい、という話にしているはずだ。私は何かを主張した後に、必ずと言っていいほど「逆の理屈もまた同時に成り立つ」という可能性にも正直に触れている。人間的な思いとしては皆さんを惹きつけて人気を博したいが(カネも儲けたいが)、私の中のある部分がそうはさせてくれない。(涙)
結論として、批判の王道とは——
●その批判対象が完全に間違いであり、こちらが正しいというやり方は王道にあらず。あくまでも、何かを批判することで「その選択でなくてもいいんじゃない?」というメッセージを伝えることにある。
そうするからこそ、「宇宙はなんと広いことよ! あらゆる可能性に満ちていることよ!」と読む者の目を開かせることにもつながるのだ。
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