毎日がスペシャルのウソ

 あるスピリチュアルブログに、次のような主旨のメッセージが載っていた。



●特別な日があって、それを祝っているなんて本当はおかしい。

 特別な日を待ち焦がれて楽しみにするってことは、普段はつまらないと思っているわけでしょ? どれだけ今を生きてないか、ってこと。

 過去も未来も全部幻で、あるのは今この時だけ。その今この時を楽しめなければ、いつまでたってもどこまで行っても楽しい日は来ない。

 5次元領域の話をすると、ずっと平和で穏やかで何も起きないところってなんだか飽きそう……って言う人がいるけどそれは、今この瞬間を楽しんでいないからそういう発想が出てくる。(いや、やっぱりしょうもないでしょう、そんな世界。テラ談)

 今この瞬間好きなこと・楽しいことをしていたら、飽きることなんてない。つまらない刺激も必要ない。今この瞬間を心から楽しんでいれば、次の瞬間も楽しい現実になるのだから。

 飽きるって一体どういうこと? 分かんな~い!ってなる。(笑)

 だから、毎瞬毎瞬を大切に生きよう。



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 筆者は、何か高次元からのチャネリングだというこのメッセージに強烈な違和感を抱いた。

 我々が正月やクリスマス・日曜祭日・何とか記念日を特別に考え、そうでない日常をどちらかといえば「つまらない」と感じるのは、罠だというわけだ。「今」を楽しくなくさせる、という。このメッセージの発信者の立場は「今ここしかない」なので、そこは筆者と違う。私は、過去も未来もあると思っている。

 一瞬一瞬(つまり恒常的な今)を楽しめてないから、比較による価値判断「今よりあの時の方が楽しかった」ということになる。しかし、毎瞬を楽しむ力があれば、どの「今」であっても比較して価値を比べることのできない、オンリーワンな価値を持つ「今」ばかりになる。そういう楽しさで埋め尽くされる……そう言いたいわけだ。

「退屈って、飽きるって一体何?」というのが、このチャネラーか大元の高次元野郎の一流の皮肉、というところであろう。フツーに生きている人たちへのね。



 筆者の立場では、このメッセージは無価値である。

 まず、一言言いたい。



●あんた、どんだけ器用やねん!



 このメッセージが言うことが本当にできれば、苦労はない。

 いいや、できてしまったらこの世界でゲームする意味がない。

「今」をすべて充実させることって、どれだけ無理難題か分かっていますか?

 例えば今、あなたは何かの組み立て作業を途中どこかの時点で間違えた。それが判明したので、全部解体して白紙に戻し、もう一度組み直し。

 失敗した口惜しさ、ミスをした自分を叱りたい思いを噛みしめてするまったく先ほどと同じ作業は、それほど楽しい時間ではない。ましてや、ワクワク感とも充実感などとも無縁である。

 他の例では、ワードソフト打っていた長文メールや書いていた原稿の内容がミスで全部消えてしまったケースとか。文書保存を忘れて、ノリにノッて打っていた場合など、そのショックは計り知れない。

 で、最初から書き直し。そういう時って、何だかクサクサした気分になったりする。「あ~もう!」 なんて悪態をつきながら、プンプン打つ。

 それが普通だと思う。そういう時、仏顔で「ああ、打ち直しも最高! ワクワク」っていう人とは、私は個人的に付き合いたくない。だって、ヘンなんだもの。人として、かなり不自然だ。

 しかし、こういう系統のスピリチュアルの手にかかれば、私のほう(一般感覚)がおかしいということになる。可哀想に、そんなこと思っているから、その通りの現実になるのよね。本当に今この時を楽しい現実にし続けることは可能なのに! と憐れまれてしまう。



 生きてりゃ、病気でウンウンうなっている時もある。心理的苦痛に、顔をゆがめる経験もある。

 願ってもいないのに、交通事故の加害者になることもある。子どもが犯罪に巻き込まれるケースもある。まさか、そういう時にも解釈で乗り切れ、と言うのか?

 楽しくない「今」があるのは、その人のせいだと言うのか。子どもが事故で死んだら、その「今」を楽しく感じれないとしたらその人のせいになるのか。

 視点さえ変えれば、どんな時でもその「今」が良い時間に必ずできるというのか。

 


●全部の時間を、退屈でない時間にすることは不可能。

 今を充実させ続ける、というのはこの幻想ゲーム世界では不可能。

 陰陽で成り立つ世界なので、必ず物事は時間をかけてすべてのパターンに変化する。ゆえに程度として楽しい時間を増やすことはできても、全部を楽しくすることは不可能。



 解釈を変えたって、痛いものは痛い。

 つらいものはつらい。イヤなものはイヤ。つまらないものはつまらない。

 それをさ、「退屈に感じるのはあなたの解釈のせい」だって?

 だって、そういうことでしょ。ありふれた日常を退屈だと思い、特別なイベントの日や遊べる日を特別とする「刺激の多寡でその時間の価値を測ること」を批判しているわけでしょ? だって「毎瞬毎瞬が楽しめていたら、退屈なんて概念は生まれません!」って豪語しているわけだから。

 だから、「退屈ってな~に?アタシ、分かんなぁ~い」などと、人を食ったようなセリフが平気で言えるわけだ。退屈、という概念が分からないあなたのほうが可哀想だよ。私からしたら。



●退屈、というそれ自体がいけない、なんてことはない。退屈を感じるということを程度の低いことのように感じることのほうに問題がある。

 退屈は退屈。それもひとつの体験のバリエーション。楽しさ、と実は同価値。うどんかそばかラーメンか程度の違い。



 退屈を無くすよりも、退屈を認める、という方向性の方がはるかに楽だと思うし、また現実的だと思う。

 24時間、朝から晩までワクワク楽しい? 人間的な「退屈」はない?

 比較して「楽しい時間」と「そうでない時間」の溝が存在しない?

 詭弁だ。そんなことあるはずがない。(でも、あるって言うんだろうね。この手の発信者ならば)

「今が楽しくなければ、いつまでたっても楽しい日は来ない。だって今しかないんだから!」

 この手のメッセージは、スピリチュアルではかなり浸透した定番常識かもしれない。でも私はそんなことない、と思う。落ち着いて考えてみようか。



●今悲嘆にくれていても、時間が経てば泣き止む時が来る。

 気が付いたら悲しみが少しマシになって、微笑むことができたりする。

 あれ、おかしいですね。「今」楽しめないならずっと楽しい日は来ないんじゃないんですか~?



 私がここで強調したいのは、「今がダメなら、今しかないという理屈でいつまでたってもダメ」という話が間違いだ、ということではない。話の力点はそこではなく、考え方において『フツーでええやん!』というところにある。

 今がダメでも、未来は良くなってもええやん。何で、「今が良くなきゃ幸せになっちゃダメ」なんて規制を設けるの? ケチ。

 フツー一般にはね、「今しかない」というのは分かりづらいの。スピリチュアルやっている人には当たり前でも、まだ広くはなじまないの!

 スピリチュアルって、なんでこうも「一般的発想、常識」をバカにするんだろうね。スピリチュアルでも自己啓発でも、「常識を打ち破る」って言葉が格好いいように思われている節があるが、まぁ一過性のブームだな。壊しまくればいいというものではない。

 やっぱり、長い歴史を通して先人たちが歩んできた道、選んできた見方感じ方は、やっぱりゲームをプレイし続けてきたその実体験から、最も良いと思うものを残してくれているわけで。DNAに深く刻まれているわけで。

 それを、過去の縛りであり呪いと見るかは、解釈や視点による。筆者は、そこを過度に敵視しない。当たり前の見方感じ方や常識にも、よいものや世を生きる上で本当に役立つものは存在する。 



 この諸行無常の世界、万物流転の世界で「常にある状態を保て」とは馬鹿げている。例えば、「幸せであり続けること」なんて不可能である。

 やれるもんなら、やってみな。絶対やせ我慢になるから。



●全部幸せだったら、「幸せ」が存在できなくなる。

 だって、幸せとは皮肉にも「そうでない状態との比較」でしか認識できない代物だから。同様に「楽しい」しかなければ「楽しい」ということが分からなくなる。だって、比較対照して認識できなくなるから。



 これだから、高次元ってやつは困る。

 下々の者の事情や心情がまるで分かってない!

 マリー・アントワネットばりの庶民との認識のズレが、やつらとこちらにはある。こっちのことがよう分からんから、「常に楽しめ」「常に充実しろ」という乱暴なメッセージが吐けるのだ。我々の立場に立って、この「現実」を生きてみやがれ。

 


 この世界は、「比較対照しないと成立しない世界」だということがまず分からないとダメだ。

 比較という行為は、使い方を誤れば確かに不幸になる。でも、だからといって比較や価値判断を一切放棄する、ということは不可能だ。やらないと、生きていけない。

 だから——



●特別な日とそうでない日があっていいじゃないか。

 楽しい時と、退屈な時があってもいいじゃないか。

 


 皮肉な話だが、光と闇はお互いを必要とする。相手が消滅すれば、自分も存在できないから。相反するように見えて、実は補完関係になる。

 だから「楽しい」と「退屈」も互いが必要で、互いを補完している。楽しい思い出が本当に輝くのは、比較的そうでないと判断できる時間のお蔭である。

 その「お蔭様」をバカにするな。陰陽のバランスという「お蔭様」をリスペクトせず壊そうとしているのが、陰陽のうち「良いとされる」片方でいいとするのが高次元とやらののたまうスピリチュアルである。

 高次元って、実は悟ってないんじゃないか?(笑)



 ……でも、『毎日がスペシャル』という竹内まりやの歌は好きだ。(爆)

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