目指さなくてよいもの

『ドクターX~外科医・大門未知子~』という大ヒットを記録したお化けドラマがある。雰囲気的には、続編は作られそうもない感じだ。スピンオフ的なもの(ドクターYとか)なら、もしかしたらまたあり得るかもしれないが。

 ゴーイングマイウェィで、権力にも金にも溺れず(なのに買い食いしたり多少のギャンブルに使う小金には執着する)、ただ言いたいことを言いたいように言い、したいことをしたいようにする。

 そんな主人公を見て、大体の人は胸がスカッとする思いとともに、一抹のうらやましさのようなものも感じる。



 恐らくだが、この大門未知子のような生き方を実際にできている人は、かなり少ないはずだ。

 ほとんどの人は、組織という名の檻の中で飼われている動物のようなもの。属している社会、人間関係という網の中でバタバタもがいている魚のようなもの。

 たいがいは、それらの力学から無縁ではいられない。言いたくないことも言い、したくないこともする。自己主張しすぎて、目を付けられるようなことは避ける。

 そういう一般の人々は、オフの息抜きにこういうドラマを見て溜飲を下げる。

 間違ってはいけないが、この大門未知子の在り方は、決して「万民の理想」ではない。一番の罠は、このタイプと正反対の人が比較して自分の不自由さを卑下し、振る舞いをマネしだすことである。自分の殻を破ろうとして、無理をしだすことである。



 すべての物事には、光と影の両方の側面がある。

 つまりこの手のドラマが流行することは、いい面もあれば悪い面もある。

 いい面に関しては、フツーにドラマを見ていれば誰もが感じ得るもので、私が改めて述べるまでもない。ただ問題なのは、具体的には言われてないが暗に次のようなメッセージを視聴者が無意識化に受け取ってしまう可能性があるからである。



●皆さんは、不自由なんですよ。

 言いたいことが言えず、したいことができず。

 上にはへいこら頭を下げ、イヤなやつでも言うことを聞く。

 それは、カネのため。生活のため。

 でも、それってどうなんですか? 本当の幸せでしょうか?

 これからの時代、生き残っていくためには腕一本、自分の力のみを頼りとして、他に依存しない。そういう風にシフトしていく時代では? このドラマの主人公は、そのモデルケースとしての提案です。

 さぁ! 皆さんもこの機会に思い切って「自由」になってみませんか?



 もちろん、制作した側は面白いドラマを作れればいいわけで、そんな社会派的理由はないだろうと思う。でも、作った側にその気がなくても、視聴者は自分の置かれた立場、事情から好きに物事を捉える。何か、自分の生き方が「イケてない」ように思わされても、責めることはできない。だって、そういう世界なんだから。



 似たような構造をもつドラマに、堺雅人主演の『リーガルハイ』がある。

 主人公の古美門こみかど研介もまた、大門未知子に負けず劣らず濃いキャラである。カネがすべて、勝つことがすべてと言ってはばからず、その生き方は一貫しておりブレない。

 普通、そんなことを言ったりやったりしていたら嫌われる。事実、架空のドラマの世界の中では、パートナーのまゆずみ(新垣結衣)をはじめとして多くの人に「人格破綻者」と思われている。

 でも、一歩引いた次元からドラマを見ている視聴者には、好かれるのだ。不思議なことに憎めないのである。

 私から見ても、いわゆる悟りと言おうか、気付きの見地から見ても理に適っていることが結構あるのだ。この古美門の言動は。

 それはさておき、今回紹介したような好き勝手やりたい放題で人生うまくいっている話のドラマを見せられると、どうしたって自分との比較材料にならざるを得ない。今の自分がどうかをあぶり出しにされるようで、何だかすわりの悪い思いをする。

 ……もうちょっと、今の自分をどうにかしなきゃな。生活のためとはいえ、やっぱり情けないかな?

 そんな風に、今のあなたが「十分でない」という気にさせることがある。そのようなことになるなら、これらのドラマを見ることで益どころか害になっている。



 じゃあ、どういう見方が一番いいのか?

 念のため言うが、次に論じる「一番いい」とは、本書のみ(筆者と、記事を読んで共感した読者)の間でのみ通用する理屈であって、宇宙の真理であり万民共通の真理なわけではないことに注意。



●ただのフィクション。あくまでも他人事。

 見てああ面白かった、でいい。

 ただし、自分自身に当てはめて、自分の人間としての良し悪し(価値)を判定する材料には向かない。



 私たちは比較という行為が大好きなので、自分とは異質なものに触れた時の宿命として、どうしても自分の中にある物差しを使ってどちらが良いかを割り出してしまう。そして、自分の立ち位置を確認し、どうすべきかまで発展させて考えてしまう。

 でも、現実なかなかそうはいかない。そこで、自分の無力さ・勇気のなさをまた確認して落ち込む。こうやって、どんなに良いものを見ても触れても、料理の仕方次第では自分がダメなことを確認する材料にしかならないことがある。

 冷静に考えましょう。

 大門未知子は、決して理想の人間像ではない。むしろ逆だ。

 あんなの、なっちゃいけない。とんでもないでしょう? ドラマだからいいようなものの、現実うまくいくはずがない。

 古美門研介に至っては、これはSFかファンタジーに分類してもいい作品だ。まったく、現実的でない。

 心理的トリックとして、「極端なものを提示されたら、それとの差の開きの分をどうしても意識させられる」ということがある。こんなのお話の中だけの世界だ、という中立視点を忘れさせられ、ただ「自分が流されて生きている」というところばかりクローズアップして考えさせられる。



 仮に、このドラマの主人公二人のような人間が実在しても、彼らは彼ら。あなたはあなた。

 彼らは、そういう人生シナリオなのだ。そういう現実の「役」が向いている資質と成育歴・生活環境にあるにすぎず、それは他者には真似のできないものである。

 こういう時にこそ、「ありのままの自分でいい」という理屈を使う時ではないか? 他の要らん時に使わずにさ。(笑)

 何も、明日から上司に啖呵きって物申さなくていい。したくないことを、「いたしません」とクビ覚悟で連発して言わなくていい。

 筆者は思う。



●生活を守ることって、尊いと思う。

 家を守ることって、一番頭の下がる仕事だと思う。

 そのために頭を下げるなら。立場を保つために色々言わなければならないことを言い、するべきことをするなら、それは誰にも、何にも恥じることのない立派な行為である。



 そりゃたまに、大門や古美門のような英雄体質の人間もいるだろう。そういう人間は、言いにくいことも言い、ここぞという時にピシャリと爽快な対応もするのだろう。

 でも、そりゃ「プログラム」だ。彼らは、自然にそうできるようになっとるんよ。

 あなたのほうは、そう動けないなら、そういうシナリオになっているわけだ。だから、どちらも同価値。

 自然にやりたくなることは起こるし、やろうとしないことは起こらない。

 この考えは、今の世ではまだまだ受けが悪いことを承知であえて言う。すべてのことは決まっており、あなたはその撮られた映画を追って鑑賞している。



 この手の「英雄ドラマ」を見て、胸のすく思いをして発散する分にはいい。

 でも、彼らと自分を比較して自分の足りなさに意識の矛先が向くなら、注意。あなたは、使用上の注意をよく読まずに薬を服用する無謀な人になろうとしている。

「あなたも、こういう人になろう!」「こんな生き方が理想ですよ。みなさんもハイ、どうぞ!」その手のスピリチュアル的発信には、注意をされたし。決して悪いものではないが、それを料理するあなたの腕の程度によっては、やけどをする。

 基本、あなたはあなたの自然な、無理のない在り方でいい。

 どうしても変えたい、という思いを押さえきれず、思わず体が動いた。意図で「こう変えよう」と無理に体を牽引しなくても、そういう「どうしようもなくその気になった」時だけでいいんじゃない?頑張るのは。

 それが、いわゆる「宇宙の流れに任せる」「サレンダー(降参)する」ということなのである。

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