マッチ売りの少女
『マッチ売りの少女』というアンデルセンの童話がある。
ストーリーはもう説明するまでもないだろう。最後には主人公が死ぬ、という悲しい結末となっている。
生きることが決して楽でないこの世では、仕事をしていない時くらいは元気をもらいたい。ハッピーな気分にさせてくれるもの、明日からも頑張ろうと思わせてくれるものが欲しい——。世でウケる物語の大半がハッピーエンドであることも、その表れである。やはり人は、幸福や希望、勝利や笑いのほうを味わいたいのだ。
ただ、毎日ステーキや高級フレンチばかりでも飽きる。時として、カップ麺や吉野家の牛丼でも食べたくなるだろう。
残酷な物語や悲しい気分にさせられる悲劇などは、ハッピーエンド話に比べればその程度の扱いであることが多い。
人はどうしても、この手の物語を自分の都合で見てしまう。
例えば、こういうことを考え出す人がいる。
『マッチ売りの少女はどうやったら死なずに済んだか?』
経済学やマーケティング理論を持ってきて、どうやったらマッチという商品を消費者に欲しがらせることができたか。プレゼンの仕方とか、あるいは教会に駆け込んだら良かったとか。ひどいのでは、自分が「少女」であることを生かして……すればよかったとか。
どうすればマッチ売りの少女が助かったか、を考えるということは、この物語の本質を全く理解していないということである。恥ずかしいと思いたまえ。
この物語には、推理小説みたいに読者を「ミスリード」させるトラップがある。
それは、『少女の死』である。
死んでしまう、というのはトランプで言えばババ抜きでジョーカーを引くようなもので、皆無条件に「あってはいけないこと」「かわいそうなこと」と考える。さらに条件反射的に、「じゃあどうやったら少女は死なずに済んだのか」と考える。
それは、一見人として当たり前で良いことのように聞こえるが、要するに責任逃避である。
とりあえず死の危険からは無縁で、幸せな立場にある読者の潜在意識は、自分の立場とかけ離れたマッチ売りの少女にではなく、どちらかといえば彼女を無視した通行人や、朝少女の死体を発見した街の人のほうに自己を投影する。
だから、自分が何か悪いわけではないが物語を読むことで架空の「罪悪感」を感じることになる。で、その罪悪感から逃れるために、少女がこうすれば死ななかった、という可能性を考えたりする。それを考え付いたら安心し、もうマッチ売りの少女の話のことを考えなくて済むようになる。
結局、この童話がただの知識として頭脳の情報バンクで終生飼い殺しにされる。その時点でこの物語の本当の「ねらい」の価値が消失する。
では、この童話の本当の「ねらい」とは何か?
●マッチ売りの少女の死のようなことは、現実にあるんだよ。今も昔も、いつだってどこかで起こっているものなんだよ、あなたの知らないところで。
あんた、そのことをどう思う?
私は、この「どう思う?」こそが大事だと思う。
「どうすればいい?」よりも。
具体的などうすればいい、を最初から考えるのは、自分でちゃんと考えて物事を決められる人という存在に失礼である。「どう思う」が土台にしっかりあれば、取る行動など頭を悩ませずとも自ずと割り出せる。
そしてそれを継続的に意識し続けることで、自分の思想信条や行動面にどう影響するか、を観察することである。間違っても、少女を単純に「かわいそう」と思い同情することではないし、ましてや「こうしたら死なずに済んだのに」というところに話本来の論点はない。それは大いなる勘違いであるが、それを世間では「教育的」と考えるらしい。
少女を見て「こうすべき」とか「見捨てるべきではなかった」というのは、空疎な教訓である。それはあなたが、マッチ売りの少女がいるその世界で、リアルに彼女のそばを歩いていなかったから言えることなのだ。対岸の火事だということを忘れて、皆「安全圏」から好きにものを言っている。
スピリチュアルでも、そういうことがある。セッションの相談者は、今リアルに苦痛を味わっている当事者。相談を受けるのは、チヤホヤされお金も儲かり、さし当り生活上の苦労もなく将来の展望も安泰なリッチ有名人スピリチュアル指導者。
かなりの確率で、アドバイスはきれいごとであり、安全圏からの上から目線。これではどちらが人生経験における「先生」か分かったものではない。
これは、どこかで目にした文章だが。
作者のアンデルセンに対し「マッチ売りの少女の話をハッピーエンドにしてほしい」という苦情が来たのだが、それを断ったとか。
事実の真偽はともかくとして、私はこの物語をハッピーエンドにすることを断ったアンデルセンに100%同意する。でないと、この物語を語る意味が消失するし、この物語の結末だけをハッピーエンドにすげ替えたものを読むくらいなら、他のもっと良くできたハッピーエンドのお話を読む方が楽しめるというものだ。
アンデルセンは、この幻想二元性世界の本質に、知らずに気付いていた。
報われない思いはどうしても報われないし、死んでしまう者はどうしても死んでしまうという「厳しい現実」をちゃんと直視している。他の童話を見ても分かるが、彼にはそういうところがある。
我々にはどうしてもこの世界を「素晴らしいことづくめの世界」「きれいな世界」にしたい、また建前上しておきたいという強い願望がある。だから、この手の話をあまり聞きたくない気持ちにもなるし、できたら「結末をハッピーエンドに変えてほしい」という歪んだ現実逃避欲求になったりする。
全部、人間のエゴである。
よぉく見ろ。この現実を。
少女の「死」自体が不幸なのではない。
「死ぬことでしか幸せになる道が残されていなかった(おばあちゃんと天国へ)」という状況自体がどうよ?という話。
そこを、あなたに考えてほしい。それだけが、この童話のメッセージ。決して、具体的にどうしろと要求しているのではなく、ただ思いめぐらせてほしいのだ。
社会運動をしろとか、恵まれない子供への基金を設立するとか。そりゃできれば結構なことだが、そんなことをこの物語は要求しちゃいない。
アンデルセンは、この童話は、あなたを信頼しているのだ。あなたにこうしろああしろ言わなくても、魂というかけがえのない貴重なツールを持ったあなたなら、このお話を聞くことであなたなりに、その感じたことを抱いたまま後の人生を送れる。
例え普段は忘れていても、あなたのどこかでその「感じ」は残っていて、あなたの人生の選択に影響を与える。それが沢山の人の分集まって、いずれ世を動かす——
現世的な利益だけを考えることに、アンデルセンは反発した。
皆上を向いていて、先だけを見ていて、下や後ろを見ない。見ない分、残酷な現実や虐げられた人々の現実からどんどん離れた所で夢を見る。
意識万能主義のスピリチュアルは、その急先鋒だ。絶対に全員がやり方次第でうまくいく、という洗脳によって、陰でうまくいかない現実がゴロゴロあることにうまくフタをし、そういう声はかき消す。
今日も、どこかでマッチ売りの少女は存在する。また死んでいく。
それをなくそうとするより先にするべきことがある。むしろこの「すべての可能性を実現する世界」ではそういう役割の命もある、という認識をもつことだ。
それは決して「冷たい」ことではない。むしろ後ろに火事が見えておきながら「問題ない。さぁ、前を向いて頑張ろう」と言うエセヒューマニストよりは千倍マシと思う。
筆者は、そういう命に敬礼する。そして、余計に自分が今生きて与えられた役割を、その命たちに恥じないように全うしようと思う。
マッチ売りの少女の死がただ可哀想で、どうやったら死なないかなど考えるのは、良いことのようで実は一番本質から遠い。この世界は戦場である。前線で他の兵士が倒れても、「大丈夫か?」と駆け寄って抱き上げていたら、あなたも死ぬ。(死んでもいいから人助けをしたい、という覚悟のある者は別だ。その場合は失礼しました)
倒れた兵士の遺志をつぐ意味でも、まだ生きているあなたがまっしぐらに進むべきではないのか。そうして、大いなる目的を果たすべきではないのか。
安っぽい見せかけの同情はゴミである。
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