裏バージョン・幸福論

 この世界においては、すべてが二極の対、ペアになっている。

 筆者が本書でずっと『すべての物事には二面性がある・あることを真理として表現すれば、必ずそれと反対のことも成り立つ』と言ってきたのも、そのためである。

 ちょっと前に、「幸福論」という記事を本書内で書いた。筆者なりの幸せとは何か、の定義を綴ったものである。

 未読の方でお時間のゆるす方は、この先を読む前に一読してみてほしい。本書の目次内を探せば見つかる。



 → 『幸福論』 (本書内・2020年11月27日 最終更新分)



 で、今回のテーマは身もふたもない、読んで元気のあまり出ない幸福論である。

 光あるところに影がある。(サスケみたいやな……って、中高年以上の世代しか分からないね!)先日書いたのは、表の幸福論とも言うべき内容。

 で、今回は目を背けないで世の暗部を見た上であえて書く、ダークサイド幸福論。

 日頃キレイキレイスピで慣れている方には刺激が強いかもしれないので、以下の文章を読む際にはご注意を。誤って読んで、批判コメントを私に送り付けられても私は相手をしませんので、そのつもりで。



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 まず最初に、結論から申し上げる。

 人によっては受け入れがたいと思うので、これを読んで体内で拒否反応が起こった方は読み進めないほうがいいので、ご退散ください。ではいきますよ。せ~の……



●幸福とは、必ず何かの犠牲の上に成り立っている。



 もう一度、言い方を変えて言いましょうか。

『何かの犠牲の上に成り立っていない幸福などない』。

 多くの人は、自分に都合よく、近視眼的にものを見ている。

 例えば日本人は、海外と関わりの深い一部の人々を除いて、海外の事情をあまり知らない。飢餓や紛争など、生々しい状況を知らない。TVで映像だけ見るのでは、とても分かったと言えるレベルではない。

 飢餓でガリガリの子どもの映像を見て、一瞬は複雑な気分になる。でも、小一時間もしたらおやつを食べご飯を食べ、バラエティー番組を見て笑ったりショッピングモールにお買い物に行っているだろう。もう、南半球の飢餓のことなど忘れている。

 日本の現状は、地球全体の力学的干渉によるトータルとしての結果である。他国の状況の上に、我々の事情は成り立っている。

 今皆さんが「幸せ」を感じているならば、必ず地球上の何か、誰かを踏み台にしている。無意識にすべてを見ることを避け、都合の良いものしか見ないようにすることでしか、ユルフワな「幸せ」など味わえない。



 昔の原住民は、生きていくために動物を狩った。

 でも、自分たちが生きていく分以上の乱獲はせず、部族によっては殺した獲物に触って、感謝の祈りを捧げるところもあった。これなどは、彼らが「自分たちの暮らしが何かの犠牲の上に成り立っている」という事実を知っており、真摯に受け止めていたからだ。『アバター』というハリウッド映画でも、そのような場面があった。

 これこそ、生きる上での叡智である。「無条件の愛」という概念より100倍本質を突いている。

 


 あくまでも仮定の話であるが、筆者の出した本が売れて、人気者になり収入もかなりのものになったとする。

 それほどでもない今の時点でも、筆者を快く思わない者がいる。アンチがいる。私が否定できないくらい見た目に「幸せ」になれば、彼らの心中は察するに余りある。

 さぞかし、はらわたが煮えくり返るに違いない。そして、こう思うことだろう。

「あんなやつが売れるなんて! もし世界に神というものがいるなら、神の眼は節穴か? 世界とはなんと理不尽な場所なのだろう!」


 

●この世界で最も耐え難いことのひとつは、気に入らんやつが自分よりも人生うまくいっていたり、幸せそうにしているのを見ることである。



 だとすれば、もし私が幸せになってしまえば、私のアンチを不愉快にするという犠牲の上に成り立つことになる。

 たいていのにわか成功者は、天下を取ってしまえばそのへんのことは考えない。いや、考える必要さえ感じないだろうし感じる力自体がない。だから、そういう人物は遅かれ早かれその座を追われる。

 長くその座を保てる真の成功者は、その人物の魅力や才能や実力のゆえだけではない。誰かの失敗や無念の屍を踏み台にして今の自分がある、ということから逃げない強さ。そしてそれを背負ってでもなお今この位置でしたいことがある、というしっかりした意思と覚悟。それがあるものが、生涯現役トップでいられる。

 筆者が仮に、まかり間違って将来人気が出たとしても、それは書き物で一山当てて、有名になって世に出ようと考える決して少なくない人間を押しのけてなったものだと謙虚に考えると思う。

 学校では、成績で五段階評価を付ける際、例えばテストで高得点の者が大勢出たとしても「5」を取れる人数は決まっているという。ゆえに、同点でもあえてどちらの人物に5をあげるか、を先生は考える。

 意識さえ変えれば何でも叶う、というのはこの現実を無視した甘い考えである。全員が満点を取っても、5を取れる席の数は決まっているのだから。この陰陽の物理世界は、例えるならそうした性質を持っているのだ。

 だから、近視眼的な幸福感ではなく、もっと包括的にすべてを見据えた上での幸福感とは何かというと——



●自分が今在るを得ているのは、様々な物事の犠牲の上に成り立っているという現実を直視すること。


 

 でもだからと言って、他を犠牲にするくらいだったら生きていてもしょうがない、とあなたは自殺をするだろうか? それとも世俗との縁を斬り、どこか人里離れた山にこもるか?

 昔の覚者がもの(私有財産)を持とうとせず、山奥にこもった気持ちが、今なら少しだけ分かる。でも、今や時代も変わったのだ。

 狩りをして生きる部族が、獲物を殺した後感謝して、獲物の命が神に還りまた良き旅となることを祈るように、我々もまた自分の幸福を成り立たせている犠牲を悼むだけでなく、それを感謝して受けて立つ。せっかくその犠牲の上に自分が立たされているのだから、他の存在の分も幸せになる。生きる。

 そして、自分に何か問題(不幸)があった際にも、それはこの世界で生きる以上は常について回る自然な責任であるので、覚悟をもって臨む。たとえその結果がどうであっても「ありがとう」「すべてはお陰様」と言える自分でいること。



 筆者は、幸せというものを語る上では、何か気持ちの良くなるような言葉だけでは片手落ちだと思うのである。

 この世界は、二元性の世界。特殊ルールで埋め尽くされたゲーム世界。そのゲームールールによると、皆が皆同時に勝てるようにはなっていない世界。

 そんな世界で、どんなシナリオ上の役割でも受けて立つ覚悟。陰であろうが陽であろうが、すべてを味わい人生の最後にはそれを納得する覚悟。

 それこそが、どんな幸福論を論じようが欠かすことのできない魂の『基盤』だと思うのである。

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