スピリチュアル・ジェンガ

『ジェンガ』という有名な玩具おもちゃ(ゲーム)がある。

 同サイズの直方体のパーツを組んで作ったタワーから崩さないように注意しながら片手で一片を抜き取り、最上段に積みあげる動作を交代で行うテーブルゲーム。

 バーツを抜く時には、崩れまいかと結構ハラハラし、崩れてしまった瞬間には「アッチャ~!」という心の叫びがマックスになったものだ。

 小人数の友達と盛り上がるには最適なグッズで、お世話になった思い出のある人は結構多いのではないだろうか。



 ジェンガは、ゲームスタートの時点ではどういう状態か。

 ぴったり隙間なくパーツが組み合わさり、きれいな直方体として立っている。

 これは実に堅固な形態である。

 しかし、ゲームが始まると、どんどん中から一本抜き上に置き、をされる。上に積む際も人力なので、当然機械じゃないから位置がズレたり、バランスの悪い置き方になったりする。

 ゆえに、いつまでも続く道理がない。早晩、塔が崩壊する瞬間を迎える。そして、全体を支えることに耐え切れなくなった塔は……



 ガッシャン!



 スピリチュアルにおいて、我々の現実的次元を超えた世界を扱うことが多々ある。

 くうとは。宇宙の成り立ちとは。他の次元とは。遠い宇宙にある世界。霊魂・天使・妖精。

 神々。死後の世界の実相。物理法則とは別の霊的法則(これを真理と言ったり、軽くはスピリチュアルメッセージと言ったりする)……などなど。

 こういったものに触れる時、我々物理宇宙次元に住まう者が、ひとつわきまえておいたほうがいい事柄がある。それは——



くうをはじめとして、霊界や他次元、見えない世界のことわりは、こちらの論理や思考法、物差しで測ろうとしたり論じたりしようとすると、必ずどこかでズレていく。

 それでも議論をやめないで展開していくと、さらに本質から遠ざかっていく。



 個人セッションの場や寄せられるメール、あるいは本書に対するコメントなどでよくあることなのだが、ものすごく根源的なこととか、死後の話とか、別次元やパラレルワールドの話とか。そういう話題に関して、かなり突っ込んだ質問をされることがある。

 筆者自身は好きではないが、サービス精神から(?)聞かれたことで答えられる範囲では答える。もちろん、私というキャラクター自我が知っている範囲で答えるというわけではなく、つながっている「あちら」がしゃべってくれる範囲で。

 ちなみに、筆者が人から質問を受けた時、自意識の認識としては知り得た情報の引き出しを自分の意思で開けて答えているという自覚はゼロ。私はといえば、腹話術の人形のように口をパクパクして貸している感覚である。

 でも、私が答えたことに関してさらに「じゃあ、ここはどうですか? これはどうなるんですか?」とさらに質問を返してきた時。そしてそういうことが何度か繰り返された時——あちらさんがヘソを曲げて、何も言わなくなる時というのがある。

 そんな時、私は「はい、以上!」と叫びたくなる。

 本能的に、分かるんだろうね。我々が身の程をわきまえずに他次元の話をし続けていると、捉え違いが起こるということが。

 お遊びとしてある程度で止めとけばお利口さんなのに、知りたい誘惑には勝てない。皆さんの嫌がる言い方で言えば、「正解を知らねばという強迫観念」ということ。別次元の話を、50音の文字の組み合わせの範囲で表現する、ということ自体が無謀だ。



 ゲーム世界を超えた創作者の次元を探求したい気持ちは否定しない。

 でも、ある程度のところで大人しく引き下がる賢さがないと、あなたはどんどんズレていく。人として、いびつになっていく。より誰よりも本質に迫っている、という見当違いな自惚れをもって結果不幸になっていく。

 なぜなら、こちらの次元の流儀で別の世界のことを推し量ろうなどという、自己の立ち位置(分限)をわきまえない、図々しい挙動に走っているからである。スピリチュアルにはまりすぎる人は、そこのところが見えなくなっている。



 夏、海に泳ぎに行くと、ある程度沖合に近いエリアに、ロープが張り巡らされたりしていないだろうか。「これ以上沖に出ると、危険!」とか書いてあったりする。

 浅瀬で、キャッキャ遊ぶ分には、海は人間に優しい。しかし、人が海本来の怖さを忘れた時。軽はずみにも岸から遠くに行った時。

 場合によっては、遠泳に自信のある者でないと戻ってこれないかもしれない。急に天候が変わったり、潮の流れが変われば、どんな泳ぎの名人でも絶対大丈夫はない。



 どうも、誤解があるようである。

 スピリチュアルの究極は、幸せとは何の関係もないゾーンに突入する。

 だから、人類は「おままごとスピリチュアル」でいい気分になっておけばいいのだ。今の時代、「幸せ」を求めるためのハウツー(意識の在り方)や引き寄せなどによる現実を動かすことによって幸せを得るようなレベルのスピリチュアルが大流行であるが、これは海で言えば浅瀬である。

 私は、一般スピリチュアルを浅瀬だと言ったが、悪口を言っているのではない。むしろ逆で、ほめているのだ。

 ようく分限が分かっていらっしゃる。その辺で止めといた方がいい。さらに深入りすれば、身もふたもない、決して楽しくない事柄が分かってしむから——。

 筆者が腹立つのは、浅瀬であることを自覚せず、これが「スピリチュアルの本質」 だとか「最終真理」などと思い込んでいる者がいること。背の立つ海岸沿いで水遊びをしているだけなのに、「あそこに見えてる島まで泳いで帰ってきたぜぇ~」などと幻想を事実と思い込んで自慢しているような状態だ。

 何度も言うが、宇宙の究極根本は「無」である。真のゼロである。1や2がある前提での数学上のゼロではなく、本当にゼロしかないゼロ。

 光も、愛もそこにはない。それが分かる覚悟がおありか? ということである。

 覚悟なく、ミーハーに「悟り」を求められても迷惑である。ましてや、「悟ると幸せになる」とか「悟ると愛の人になる」とか、勘違いも甚だしい。



 分離意識で、自他や時間概念・始まりや終わり・縦横高さの概念に縛られた世界であちら(根源世界・別次元)のことをいくら考えても、実相からはズレてしまう。定規で体重を計ろうとするようなものだ。

 だから、ほどほどのところにしていく知恵がいる。その知恵のない者ほど、捉え得ない次元の話を怒涛のように振ってくる。

 で、そういう人に多い傾向としてそれほど「幸せそうではない」。

 そんな話よりももっとやることあるやろ? と言いたくなる。目の前のことのほうにもっと意識とエネルギー割きなよ、ってね。

 ジェンガやっているといつか崩れるのは、逃れられない宿命なんだから!



 ジェンガ(スピリチュアルの探求)を健全に楽しむためには、三つの方法がある。



①崩れそうだな、と分かったところで潔くやめる。

②崩れることを承知でゲームをすすめ、崩れたら「崩れた崩れた~♪」と、そのことすら楽しむ度量を持っておく。覚悟を持っておく。

③悟る。つまり、意識として突き抜ける。



 ③ならジェンガマスターになるようなもので、①や②よりもいいように思えるだろうが、これは自力でなんとかできる性質のものではないので、よほどの熱意と覚悟がない限り期待しないほうがいい。あと、突き抜け方を誤るとただの迷惑な人(狂人)になってしまうので注意。

 やはり、現実的なところで①や②を多くの人は選ぶことになるだろう。

 人生シナリオ的に「覚醒者」のようなものになるのでもないかぎり、スピリチュアルな探求は加減の良いところで止め、フツーに生きるのがいい。

 ゲームプログラマーにでもならない限り、ゲームなんて遊びでしかないその他大勢と同じで、その道でメシでも食うの出ない限り、「やってて楽しいエリア(浅瀬)」にいてほしい。

 スピリチュアルやってて苦しくなったり楽しくなくなったり、~ねばという義務感などが顔を出したら、要注意。あなたは、浅瀬から軽々しく出ようとしているという危険信号だから。



 確信犯的に「楽しい」と思える範囲、負担のない範囲でスピリチュアルと付き合うのが吉である。

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