ついつい自分の基準で考える

 先日、非常に気付かされる経験があった。

 筆者は最近、杖をついて歩いている。足腰が良くないので、長距離の移動にはあるほうが助かる。

 杖をつきながら、電車に乗ることもある。結構何駅分も乗る時に、混んでいて座れない時がある。

 私個人の経験だけ言えば、杖をついてるからといって席を譲られた経験はほぼない。5年くらいは使っているが、その中で1度か2度しかない。

 顔見て若そうな分大丈夫だと思われるのか、理由は分からない。人が大量に降りて、席が本当に空いた時しか座れないことがほとんどだ。



 先日、そんな感じでやはり吊革につかまっていた時、考えた。

「ほんま、席譲りよらんな!」

 自分だったら譲るのに、と考えた。で、そこまで考えて、全然違う方向に思索が向かった。



●ん、待てよ。

 自分は実際に足が悪くなるという体験をし、苦労もしている。だから、足の悪い人の事情やしんどさが分かっている。

 その「自分だったら譲るのに」ってのは、こういう現状にある自分だから分かるだけじゃないのか? 自分だったらと想定する時、足が実際に悪いという事情を抱えていない時の自分を思いだして当てはめなければ、フェアじゃない。だって、私が憤慨の対象にしてるのは、足の普通な人たちのことなのだから。



 覚醒した人、霊的に成長した人たちが陥りやすい罠がある。

 それが、今言ったことに通じる。すなわち——



●自分が大きな気付きを得た、成長したその基準に慣れたので。

 そこからの判断が当たり前になったので、相手の立場に立つというよりも、自分の基準からの話をしてしまう。 



 筆者は自分が足が悪い立場だからこそ、席を譲られないことにいささか落胆し、自分だったら譲るのにと考えることができた。謙虚になって、自分の足が元気だった20歳代の時を考えたら、おそらく私は席を譲ることはなかっただろうと判断する。

「めんどくせぇ」とか「年寄りは立っとくくらいの方が運動不足解消になっていい」とかひねくれたことを考えていたと思う。

 そんな私が、今やスピリチュアルや人の在り方を論じてメシを食っているんだから、未来なんて本当に分からないものだ。

 覚醒体験して突き抜けた者は、(もちろん個人差はあるが、大まかな傾向として)本当に宇宙は「大丈夫」だということが分かる。禅問答のようになるが、「大丈夫じゃなくても、その大丈夫じゃないこと自体が大丈夫」だというのが覚者の認識だ。

 物の見方がドッシリと確立されて、ブレない。もはや、覚醒前の視点やエゴから来る焦りや恐怖など、本当に恐れていたあの時の自分を思い出しにくい。忘却の彼方であったりする。

 で、悪気なく今の自分視点ですべてを論じる。他者にもそのとおりに話す。ここで、ひとつ問題が起こる。

 


●覚者や霊的成長を遂げた高レベル(?)の人たちは、時々油断すると、相手がまだ自分と同じ実感や体験がまだなことを忘れて、自分の自然な基準で語ってしまうことがある。



 例えば、仕事を失うことを怖がっている人に、「そもそも仕事を失うことなんてそう致命的なことではない。問題を問題と思うからいけないのだ」「問題だと思う意識が、視点が変わればいい」「食えなくなると言うが、この日本では飢え死にすることは不可能だ」という理屈を、覚者が語ったとしよう。

 私も、本当にその通りだと思うし、どこも間違っちゃない。だが、正論というものはまだそれを受け入れるレベルにない人にとっては、毒となる。

 だって、その人は仕事を失うのがマジ怖い、というのが正直な思いなのだから! 生活保護もあるし炊き出しもいろんなところでやってるし泊まるところも提供してもらえるし、生きる気さえあれば死なんよという言葉はまるっきり的外れだ。その人が今聞きたいのはそういう理屈じゃないのだ。

 程度の高い人は、相手の立場に立つことが案外下手だ。(自分が全然怖くなくて敵ではないと思う対象でも、これからの人にしたら本当に恐ろしい脅威なのだ、というところを忘れてしまう)

 もちろん、この世界は無限の可能性を味わう世界だ。普通と全然違うスピリチュアル指導者の視点を聞かされることでハッ、そういう見方もあるんだな、と気付きを得て、成長に繋がるケースだってある。それは否定できない。

 だが、その絶対数は少ない。だから、この現実世界ゲームにおいては確率論的に「上から目線の理屈は、下の者の役に立ちにくい」とは言える。



 筆者の私見だが、「覚者は個人セッションが基本的に下手」だと思う。

 発信は一流だが、対人能力は低い。高く見えても、それは何を聞いてもブレないし、自信に溢れているように見えるせい。

 皆さんが「この人は偉い、すごい」という前提で見てあげてる分だけ、人格者として見えるだけ。覚醒したことで発揮できる能力と、人の気持ちに寄り添いかゆいところに手の届くアドバイスをする能力とは、全然別カテゴリーである。

 覚醒者になったら個人セッションをやって儲けていい、というのは短絡的すぎる発想である。筆者の場合は、覚醒したからという理由で個人セッションをやっているのではなく、別でできると思う理由を持っているので、あえてやっているのである。



 基本的に、霊的に成熟しすぎた人や突き抜けた覚者は、マリー・アントワネットのようなもの。

 歴史的事実はさておき、民衆が飢えて困っていると聞いて「食べ物がないなら、お菓子を食べたらいいのに」と言ったというようなことが言われている。

 全然、相手の事情を分かっていない、食うに困ることのない立場にある人ならではのご意見だ。でも、マリーを笑うことはできない。もしかしたら、気付かぬうちに自分の到達した基準から、未到達の相手を斬ってしまっていることがあるかもしれないからだ。



 もちろん、時として覚者が「バッサリ本音をぶつける」ことがプラスに働くケースもある。それは、魂の声に耳を傾けたその導きの結果であれば全然問題ない。ただ惰性でといおうか、「無意識に、何となく」やってしまう所に、すれ違いが起こる。

 悩んでいる人を真に励ますことができるのは、その同じ悩みを乗り越えた人だということが世間で言われる。それは間違ってはいないが、正確に言うと「悩みを乗り越えて、ホヤホヤ。そこからそれ以上上のステージに行っていない人」がいいのだ。

 成長しすぎたら、当時を自分の中で再現する能力が失われる。監視カメラの映像は、全部取っておいてもしょうがないので、古くなったものは順次破棄される。それと同じようなことで、進み過ぎた人は相談相手に向かない。

 だから、覚者とかに相談するのやめとけ、と言うのだ。好きなら構わないが、励ましてもらうとか、慰めてもらおうとか、何かを要求する相手としては一番不向きだ。悩んでいるあなたに真に寄り添えるのは、どちらかと言えばあなたの身近な友人であったり、親であったりするかもしれない。

 飲み屋で愚痴を聞いてもらう、ってのはよくある状況かもしれない。でもあれ、どれだけ効果的で価値があるか分かります? 下手に専門家にカウンセリングを受けたり、セッションを受けたりするより安上りで、しかも確実な「効果」を得られて超お得だ。

 ホンマ、清すぎる高次の存在……天使とかアセンディドマスターの言うことはきれいごと過ぎて、聞いても何の力も湧いてこない。それが実行できるくらいなら、最初から悩まねぇぜ! ってな内容ばかり。



 多くの人は、霊的成長を遂げ覚醒に至ったら「結構なことずくめで何にも問題や欠点もない」という印象を持たれるかもしれないが、気を付けるべきことというのは結構あるのである。

 高次な意識に目覚めるほど、それ以前の段階の事情や感情に関する理解度や共感度が減る。あたしゃ減っていないぞ! と思ってもダメ。自覚とは無関係に、やはり慣れた本質視点で何でも斬ってしまっている自分に気付くはず。いや、重症だったらそもそも気付かない。

 笑えるが、下々の気持ちが分からなくなった高次存在、というのはいるのである。覚者も、祀り上げられれば「裸の王様」と化しかねない。

 


 いつでも、「すべての在り方を愛せる」自分でありたい。

 もちろんそれは、悪いことにも目をつぶるとか、ダメなものも「いいんだよ」というそんな程度の愛し方ではない。賢明な皆さんなら、そのへんの文意は分かっていただけることと思う。

「お菓子を食べればいいのに」と言ってしまったあとで、「自分の感覚でああ言ったけど、世間にはそもそもお菓子が足りてるのかしら?」と後で調べる配慮があれば、マリー・アントワネットも捨てたものではない。

 私は、そんなマリーでありたい。

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