今は今のために

 蝶などの昆虫は、生まれてから幼虫・さなぎ・成虫へと変わっていく。

 まぁ、成長という言い方もできるだろう。

 ここで、こう考えてしまいやすい。

 さなぎへと変化していくために、幼虫時代という準備期間がある。

 成虫へと変化していくために、さなぎ時代という準備期間がある。

 要するに、ひとつ前の段階は、次の段階のために存在するという発想である。



 この発想は、一部の宗教やスピリチュアルでも使われることがある。

 例えば、肉体をもってこの物理宇宙次元を生きるのは『霊界へ行くまでの魂の訓練場』、あるいは『修業の場』である、というようなことが言われたりする。

 極端な言い方をすると、この世でどう生きたかが、死んでからいい所(天国)へ行けるかそうでないか(地獄、という言葉に代表されるような苦しい世界に行くか)が決まる。だから、この世では徳を積み愛に生きようね、という話になる。

 まるで、大学受験だ。高校時代の成績や内申書、模試の結果であなたはこの志望校に合格できるよ、あるいは難しいよという「判定」が出る。それによって、行先もだいたい合格できる範囲に絞られ、決まっていく。冒険で無謀に分不相応なところを受けても、運で合格できるほど現実はそう甘くない。

 筆者はこの、この世界が霊界へ行くまでの準備期間、訓練期間であるという発想がきらいだ。

(注:キライだと好みを述べているだけで、間違いだとは言っていない点に注意)

 まだ 今ではではない将来のためにこの今がある、言わば今よりも将来の何かの方がより重要であったり、価値があったりという切り口の見方がイヤなのだ。



 さっきの蝶の例で考えてみよう。

 最終成虫になることが変化の目的だとすれば、それまでの段階的変化、つまり幼虫やさなぎの段階はまだ「未熟」であり「準備期」。だから、成虫になるために幼虫の時期とさなぎの時期があるのであり、寄席で言うと「前座」。成虫という、その個体としての「完全体」になるための時間が「成長」なのであり、下手をしたら 「幼虫・さなぎ」の状態よりも「成虫」の状態にこそ価値があり、幼虫やさなぎは成虫に劣るという無意識下の錯覚に陥りやすい。

 同じことで、この世はあの世へ行くための準備期間、というような教義をもつ宗教は、無意識にこちらよりも霊界の方を価値視していたりする。

 もちろん、今指摘した概念が間違っていると言いたいのではない。ただ趣味の問題で、筆者は次のように考えたいだけ。



●今は、今のためにある。



 蝶で言えば、さなぎにるための準備として幼虫期があるのではなく「幼虫期を味わい尽くすため。全力で楽しむため」。その結果として気が付いたら、時が来たらさなぎになっているのが分かる。それだけのこと。

 さなぎは、成虫になる前段階としての意義がもっとも重要なのではない。さなぎとしてしか生きられないその決して長くはない希少な時間を、さなぎとして悔いのないように過ごすためである。

 子ども時代は、大人という社会に貢献でき生産的活動もできる立派な人間としての完成個体になるために、準備期間としてあるわけではない。子ども時代という、一期一会の独特の期間をとくと味わうためである。

 大人になるのは、時間という幻想上の結果である。最終形態が完全であり優れている、その前段階がまだ未熟なのだという発想は好かん。



 今が、遠い将来に何かを得るためにあり、それを得ていない今はそれを得た未来の自分と比較して不十分である、という発想。それは、あなたを将来の素晴らしい目標にばかり目を向けさせ、逆に今まだそれを得ていないという現状をくっきりと見せつける。気を付けないと、それが焦りの気持ちとなってあなたを急かす。

 その急く感情は、決して心地よいものではない。なぜなら、その気持ちは今のあなたを「不十分」として、「少しでも早く十分となるように、もっと頑張らんかい!」と要求してくるからだ。

 幼虫は、幼虫それ自体のために、それ自体として生きる。さなぎはさなぎとして、さなぎらしくさなぎたるを得て、最後まで過ごす。成虫は成虫。

 子どもは、決して大人になるためだけに子ども時代を過ごすのではない。将来立派になる、ただそれだけのために子ども時代の意義があるのではない。

 子どもを、大人という人間の個としての完成形態までの過渡期と捉えないほうがいい。「子ども」という種が、大人とは別種として存在するくらいに思ったらいい。



 筆者は、死んだ後のために今を生きるのはまっぴらだ。

 今が準備だとか訓練だとか修業の場だとか、そんなこと知るか。



●魂が「在る」という状態において、本番じゃない時、ってあるんか?

 準備と本番とか、そんな差があるんか?

 私は、いつだって常に「本番」だと思うな。



 今を懸命に生き続けた結果、それが結果として良く実を結び、後々(知らないけど)死後いいことになればよし、程度。最初から「狙って」やるのはバカらしい。何か将来得をしたい下心があって、そこから逆算して今の行動を決める人生など、私にはくだらない。(もちろん私には、ということであり皆さんがどうでも問題なし)

 もちろん、予約の取りにくいレストランに行くために、前もって計画的に予約を入れるということはあるだろう。将来何になりたい、という熱い思いがあれば、じゃあどういう勉強を今からしておいて、どういう学校に入ればいいのか、などと算段ができる場合がある。確かにそういった「具体的目的のため手を打って準備しておく」ことは大事である。

 今回筆者がが言っているのは、何もそういう具体的かつ物理的な分野のことではない。そうではなく、「生き方としての、在り方としての今の自分の捉え方」についての話なのである。



 今在る私は、決してもっと良い未来のために、不十分な自分として未熟さを埋めるために居てるのではない。未来に比べ、今は未成長の差分だけ値打ちがない、などということはない。

 ある視点では、今まさにあなたは100%だということである。幼虫として。さなぎとして100%。

 人生で失敗しても、恥ずかしく思う結果が出ても。ある視点では100%である。

(ありのままでいい、という話と一緒で、この視点も処方を誤ると甘えと怠慢に転じる恐れがあることに注意)

 


 筆者にも、数時間後や明日に死ぬのでない限り、まだまだ人生の時間が残されている。その時間があればもっと成長でき、色々な気付きにも溢れていると考えれば、単純計算でその積み重ねがまだない今の自分は、人生をまっとうした瞬間の自分に比べ「劣っている」ということになる。でも、そうは思いたくないのだ。

 今の自分は、十分今の自分としてふさわしく「在る」ことができている。この全力は、現時点で誇れる「全力」である。

 将来、その全力のクオリティが今より上がるにしても、それとこれとは話が別。比較して優劣を論じるのは、楽しくない。 



 私は、現実を幸せに生きるために、予定も計画も立てる。未来を想定して、何かの手を打つ。でもそれは、生きる上での具体的・物理的な事柄に関してだけ。

 生き方、という大局的な見地において、私は将来のために今を生きていない。今のためだけに、今を生きている。

 そして、結果論として周囲の状況やステージが移ろい行くだけである。

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