意図したらアウト
スポーツの世界。芸事の世界。勉強もそうだが、いざという時、たとえば試合やテストやコンテストなどで一番役に立つ(ものを言う)ものは何?
それは、練習。言い方を変えれば、『日頃の積み重ね』である。
日頃怠けていて、その場だけ一生懸命になっても仕方がない、ということは説明せずともお分かりただけると思う。学校のテストなんてその最たるもので、復習やテスト勉強をしてなかったら、本番ではすることがない。気張っても、もがいても、覚えていないことは出てこない。
スピリチュアルでも、同じようなことが言える。
スピリチュアル実践者は、よく勘違いをする。
たとえば、「感謝しよう」と言ったりする。
他にも「エゴを無くそう」「中立に立とう」「執着を捨てよう」「思考を捨てよう」とも。今挙げた、これらに共通することは何だと思いますか?
●意図してするのは不可能だということ。
全部、その瞬間に「やろう」と思ってやる場合破綻することなのである。
たとえば、エゴを無くそう、と思っているのはエゴである。意味がない。
裁かず価値判断せず、中立でいようというのも、意図した瞬間ウソものになる。
中立にいる、というのは結果論に過ぎない。「そうできていた」という確認に過ぎない。中立になろう、と意図した瞬間、それは何かを目指す姿勢であるから、その瞬間中立ではない。
執着も、捨てようと意図した瞬間そこで「(捨てなければという)執着になる」という皮肉がある。
思考を捨てようとしているのは思考である。思考を使って思考を捨てようとしているバカバカしさにはなかなか気付けない。思考の手助けを借りないと、「思考を捨てよう」などと考えられないのである。
感謝しよう、というのも考えようによってはおかしい。しよう、と思ってする感謝はくだらない。
自然に感謝できてこそ本物。人が打てる手は、その時感謝できるようにしようではなく、自然に感謝できるような体質を普段から作っておこう、そのために常日頃から全力で生きよう、ということだけ。
そう考えると、スピリチュアルって「意図してしたら台無しになることって多い」のですよ。
その時、瞬発的に~しようと頑張ってもほぼ意味がない。それができるかできないかは、その時までにほぼ決まっているのだ。
スポーツその他と一緒で、その時の頑張りよりも、その瞬間まで何を積み上げてきたかがものを言う。つまり、ある瞬間に何かを成せるかどうかは、その瞬間の瞬発力的な力ではなくそこまでの経験という、コントロールしがたいものに左右されてしまうのである。
だから、対策として打てる手は、たったひとつ——
●日常の積み重ねなのだから、どんな時でも、この瞬間の体験や思いがいつか役に立つ、と信じて日々を全力で生きることしかできない。
我々には、未来は分からない。だから、今のこの経験がいつ・どういう形で生きるかなど知る由もない。だがら、どの瞬間も真剣。
スピリチュアルというのは、本を読んで書いてあることを実践したり、講演会で聞いた話を意識するようにしたり、何かしらのワークに取り組んだり……と「意図的に」何かをやる枠が大きいように見えるが、それよりもそれほど意識していない24時間すべての感情と意識の連続集積体……つまりすべての総合日常がスピリチュアルだと捉える方が正確だ。
●スピリチュアルとは、教わった知識に基づいたを実践をするなどして、すぐに何らかの効果を得る性格のものではない。生きることすべて、見ること聞くこと感じることすべて、全人的にスピリチュアルなのだ。
生きることそれ自体がスピリチュアルなので、本来は限られた特殊分野であることがおかしいのだ。スピリチュアルやってる人、やってない人なんて分類自体が、すでにとち狂っている。
前述したように、~しようと意図した瞬間に意味が崩壊するもの、価値が半減するものがほとんどなので、「スピリチュアルやろうよ」と言うより「真摯に生きようよ」のほうがいい。
その方がずっと、スピリチュアルを実践するよりもスピリチュアル的である。
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