相手には関係ない

 かなり昔のドラマだが、嵐の松本潤主演の『バンビーノ!』というイタリア料理の世界を描いた作品がある。

 松潤演じる主人公のばんは、イタリアンの料理人志望。

 ちょっとした料理経験があることから、「自分は結構イケてる」とうぬぼれるが、東京の一流店に就職してその傲慢さを木端微塵にされる。

 徹底的に無力を思い知らされたその後の、主人公の「這い上がり」がこの作品の見所でもある。



 ある時、「厨房に入る者でも、一度はホール(接客)を経験しておくべき」という店の流儀に従わされ、渋々ながらもホール担当として働くことになった伴。

 腐りながらも、そのままではいけないとどこかで分かっている彼は、少しづつだが前進していく。ある日、「うちの料理は美味しい。それをお客様に分かってもらうんだ!」という自分なりの接客をする意味合いを見出した彼は、不愛想なそれまでとは見違えるように、生き生きした接客をするようになった。

 お客の反応もまずまずで、彼の熱心なすすめにより「じゃあそれ注文してみようかな!」となる客も多かった。手ごたえを感じ、当然ほめてもらえるとばかり思っていた伴は、ホール長に呼び出されて意外なダメ出しを受ける。



●おれ、そういうの好きじゃないな。

「うちの料理は美味しい。それをどうしても分かってもらいたい」

 それが、伴君なりの思いなんだろ? でも、それってお客様に関係ないんじゃないかな。

 それは、単にこちらの気持ちを押しつけているだけ。接客って、こちらの思いを伝えようとすることじゃなく、逆に「おもんばかる、相手の気持ちを汲み取る」ことのほうが大事なんじゃないかな。

 君のやり方は『愛じゃない』。


 

「自分の中の思いを伝えたい」という熱く強い動機は、常識的にはそんな悪いもののように言われない。むしろ、素敵なことのように言われる。

 ただこれは、本とかテレビとか講演会とか、双方のやり取りが存在しない「一方通行的」性格をもつものに限って力を発揮する。

 しかしこれが、生身の人間を目の前にして、人格的やりとりが生じるとなると、あまり生きてこない。それどころか、やりようによってはハッキリ「押しつけ」となり「迷惑」となる。

 このドラマの例では「レストラン」という接客の舞台だから、良くなかったわけである。一方通行ではなく双方向性のコミュニケーションなのだから。

 話は変わるが、発信が一流にできるからといって簡単にスピリチュアルな個人セッションなんかやっちゃいけない。それとこれとは、全然ジャンルの違うスキルなのだ。名選手が名監督になれるとは限らない——これに似たことである。



 スピリチュアルの業界では、一見どんなに素晴らしく見えても、冷静に見抜けば「価値観の押しつけ」に過ぎないものは多い。

 受け取り手のレベルは色々なので、騙される人も多い。

 ゆえに、世間的に人気を博しているからといって、そっくりそのまま「正しい」「手放しで信頼できる」というのは短絡的だ。筆者がまだまだ青い頃(活動開始して一年目くらいまでかな)、スピリチュアルで一番大事なことは「面白いこと」だと思っていた。だから、他の発信者の文章を読む時の評価基準は、発信内容の面白さにあった。

 今でも、面白さが大事という点ではさほど変わっていないが、もうひとつ大事なものが増えた。



●それは、モニターの向こう側の誰かさんの気持ち。



 このように言うと、意外に思われる方もいるかもしれない。

 たとえば本書などは、どっちかというと筆者が好き放題言うような、ゴーイングマイウェイで嫌なやつは読むな! みたいな雰囲気が漂っているから。とてもじゃないが「私は皆さんのこと考えてます!」なんて愁傷な気持ちがあるとは思えない! そう言われても仕方のないところだ。

 でも、どっかでは考えてるんだよ。でないと、純粋に100%マイウェイでやっていたら、本当に誰も見なくなる。ただ、隠し味にしてあまり表に出していないだけ。



 有名なディズニー映画『アナと雪の女王』のアナは最後に「真実の愛」とやらで姉のエルサを救い、また救われる。アナが良かったのはそこだけで、それまでは実に散々なふるまいをしていることにお気づきだろうか?

 特に、アナが氷の城の孤独な女王と化したエルサを連れ帰ろうとする時など、最悪だ。これはカウンセリング、対人セッションの最悪の見本であると言っていい。

 では、その場面の歌(アナのセリフ)を追って見ていこう。



●守ってもらわなくて平気 私は大丈夫よ

 ねぇエルサ行かないで ねぇお願いよ

 あたしから離れないで



 守ってもらわなくて平気、ということは依存しないという宣言である。

 その舌の根も乾かぬうちに、「行かないで」「離れないで」とは? 言ってることが総理の国会答弁並みにムチャクチャだ。

 結局、こちらの思い通りに一緒に山を下りてもらわないとアナはどうしようもないのだ。エルサにどうしても言うことを聞いてもらわないといけない前提がある。

 エルサがすんなり受け入れてくれなければお願いは懇願となり、それでもだめなら命令となり、最悪「あなたが言うことを聞かないなら、どういうことになるか分かる?」という恫喝となる。



●そう 生まれて初めて分かりあえるの

 生まれてはじめて力になれる

 ねぇ 二人で山を下りようよ

 こわがらないで

 一人だけ残して帰れない



 アナは絶望的にとんちんかんな状況分析を一人まくしたているが、的外れなだけにエルサにはゼンゼン響かない。

 エルサにしてみたら、(この瞬間の彼女なりの真実としては)放っておいてほしいのだ。それが一番の願いだ。

 この後で、アナからアレンデールが大変だ、と聞かされてエルサは「悲しい」と言うが、ホンネではない。正確には、少しは悲しいかもしれないが、エルサの心の中で多くを占めているのはもっと別のことだから、そんな程度の悲しさでは今の私を動かせないよ、ということである。

 彼女の「悲しい」が本当なら、山を下りるはずだ。冬を止められる、られないに関係なく。気持ちがないから、結局山を下りない。

 エルサは、本当は国のことなどそれほど考えちゃいない。口先だけである。

 この時のエルサの関心事は「これ以上傷付きたくない」ということだけ。

 


 そんなエルサを、カウンセリングのクライアントと仮定してみよう。そして相手の心を開かせる(山を下りさせる)つもりのアナを、カウンセラーと見立ててみよう。

 このカウンセリング(セッション)は最悪だ。

「生まれて初めて分かりあえる・力になれる」というのは、アナが自分勝手な理想論に酔っている状態。自分が良かれと思って信じている事柄におかしな自信を持っており、それを相手が受け入れられないかも、なんて疑うことすらできない。

 国中の大勢の人々の利害を代表して交渉しているアナに、理があるのは確かだ。エルサを連れ帰らないと、実際にアレンデールの住民たちはひどい目に遭うからだ。

 そういう切り口からすれば、この時のエルサは明らかに「間違っている」。が、それはエルサ本人にはあまり関係がないことだ。特に、精神的に追い詰められ殻に閉じこもろうとしている状態の時には。

 そういう精神状態の人物に、「自分のことだけじゃなく世界のことも考えて!」と言ってもムダである。相手が、こちらの提示する常識・良識的価値判断(いわゆる正論)を認められる状態にないのに、ゴリゴリとこちらの思いを押しつける。たとえ正しくても、理解しない相手には何の意味もないのだ。



「怖がらないで」

って、別にエルサは山を下りることを怖がって下りないんじゃない。自分の気持ちをまったく分かっていないクセに、言うことだけはいちいち正論なアナの言葉に反発しているだけ。

 正論による脅迫こそ、一番カウンセラーがやってはいけないことだ。この場合の正論とは、エルサの感情を無視して「あなたが山を下りないと国がたいへんなことになる」と迫ることだ。

 世には、無意識に無自覚にこれをやってしまうカウンセラーもいるから、当たり外れが激しい。

「一人だけ残して返れない」それは、アナの勝手な事情だ。エルサにいちいち言うことではない。

 そんな正論脅迫屋アナに、エルサは言う。



●アナお願いよ 帰りなさい

 太陽が輝く国へ



 クライアントが、心を閉ざしている状態。

 あなたと私とは、価値観が、住む世界が違うの。話し合ってもムダ。そう言っているようなものなのである。

 ちなみに、『太陽が輝く国へ』というのはアナへの皮肉であり、自分が正論から言えば間違っていることを多少後ろめたく思いながらも従えないという、僅かな自責の念から出た『自虐の言葉』である。自分は光のない暗い世界に残るわ、という。



アナ:  うん でも……



エルサ: いいの

     ここではひとりだけど 自由に生きられるの

     私に近付かないで



アナ:  それは無理



エルサ: なぜ無理なの?



アナ:  ものすごい雪よ


 

エルサ: なんのこと?



アナ:  アレンデールが危機なのよ



エルサ: え?



アナ:  エルサの力で国中が雪と氷に包まれたの




エルサ: 国中が?



アナ:  エルサなら元に戻せるでしょ?



 これは、押し売りが気の弱い人間に商品を買わせる手法と同じ。

 新興宗教が、根が素直な人を懐柔して入信させるテクニックと同じ。

 でもアナの場合やり方がヘタなので、テクニックとまで言っていいかどうか。こんなのにひっかかる人は少ないとは思うが、残念ながらゼロではないだろう。

 客は、一度「要らない」と断って意思表示をしている。でも、はいそうですかで終わらないのが押し売りであり、宗教の勧誘である。

 逆に、「断られてからが本番」なのだ。実に迷惑な話である。



 アナは、「エルサがアナのお願いを拒否するべきでない理由」を挙げていく。

 先ほども触れたが、アレンデールが危機なのよ、は形を変えた脅迫・恫喝である。このケースでやっかいなのは、「国の危機」という大勢の利害に絡んでいることだ。だから、このケースでエルサの肩をもつ者は少ないはずだ。

 どんなにアナのカウンセリング的アプローチがサイテーでも、「みんなのため」という大義名分のもとその評価はかき消され、「大勢の幸せがかかっているのに言うことを聞かないエルサが悪い」と思いやすい。

 何度も言うが、その時のエルサ個人の立場に立てば、「その他大勢」などあまり関係がないのだ。ゆえに大勢の人を救うため、という言い分も「こちらの思いの押しつけ」になる。

 徹底的にクライアントの立場に立てないハンパカウンセラーは、いとも簡単にクライアントを倫理・道徳的基準で裁いてしまう。『レ・ミゼラブル』で大事な銀の食器と燭台をジャンバルジャンに盗まれたのに、「あれは私があげたのです」ととっさに言えた神父の爪の垢でも煎じて飲め、アナ。

 エルサならもとにもどせるでしょ? これも人を説得する場合失格である。

 特に、「できない」と自分で思っている(あるいはできなかった時のことを考えて恐れている)人に投げる言葉ではない。

 プレッシャーを与えたければ別だが、なんら効果のない言葉である。

 


エルサ: いいえ無理よ やり方が分からない



アナ:  できるはず 絶対できるよ

     そう 生まれて初めて



エルサ: あ~ひどいわ 悲しい



アナ:  勇気を出して



エルサ: 何もかも無駄だったの



アナ:  二人 手をとろう


 

エルサ: 無意味だったの



アナ:  冬を終わらせよう



エルサ: おぉ 私にできることは——



アナ:  聞いて



エルサ: ……何もない



アナ:  青い空を



エルサ: 危険なだけ



アナ:  取り戻したいの



エルサ: ああ……



アナ:  必ずできるわ



エルサ: あ~~~~~



アナ:  力を合わせれば



エルサ: やめて!



 この後、エルサの発した冷気の衝撃波がアナの胸に刺さるが、自業自得である。

 これほど見事な、カウンセリングの最悪失敗例はない。

 面白いほど会話が噛み合っていないのが、お分かりになるだろうか? もうこれは、会話というキャッチボールですらない。二人が自分の世界に閉じこもって酔って、言いたいことを言ってるだけ。

 ただエルサの方は、心が傷ついていただけに相手の言動には敏感だった。アナの言い分には聞く耳を持っていなかったが、どうも「自分がするべきことをしないということを、暗に責められ要求されている」という空気は読んだ。結果、気分を害した。

 いくら相手が間違っていて、自分に正義があろうが、相手の気分を害したらカウンセラーの負けである。これは、一番やってほしくない例である。

「絶対できる」勇気付けるどころか、相手を心理的に追い込む。

「二人手をとろう」「青い空を取り戻したいだけ」「力を合わせれば」——

 全部、アナの自分勝手な都合。(ただしエルサの選択に国民の命運がかかっている、という要素がバイアスとなり、アナに問題がないように皆に思わせる。逆に可哀想なはずのエルサに憎悪が向くように仕向けている)



 この世界で「良い」「正しい」とされていること。大勢の正義。大勢に関わる損得や、多数決的な選択。

 そういったことが、本来守られ優しくされるべき人物を叱り傷付ける。

 また、善人ヅラをして良いことを言う人が、結果として人を攻撃してる結果になる場合もある。

 どんなにあなたの中で絶対の理屈でも、他者にとっては本来何の関係もないということを、わきまえておくべき。特に、スピリチュアルでメシを食う人は。

 でないと、包丁の使い方がヘタな料理人みたいなものだ。情熱、というものも扱い間違えたら毒となる。

 これはいい!と思って広める・伝えることも、ケースによっては押しつけとなる。ただの迷惑となる。「こうするべき」というあなたの信念は、使い所を誤るととんでもない結果を生むことがある。



 よく、刑事ドラマなどで犯人を追跡している時に、刑事が



「待て~~!」



 などと叫んでいる場面がある。

 その言葉を聞いて、「はい」と立ち止まった犯人はいないに違いない。

 スピリチュアルのセッションで、この手の言葉を言ってしまっていないか、注意することが大事。

 要するに、「そんなこと分かってるよ。できないから相談に来てんだよ!」と思ってしまうような当たり前のド正論と、単なるこちらの良かれと思う事情を述べているだけ。相手の心には全然届かない、という種類の言葉である。相手の気持ちなど露程も考えていない言葉。



 また、「あなたの気持ちは良く分かるわ。けど……」 という言い方がある。



●けど、って何?

 結局、相手の気持ちは分かっていない、ってことだ。



 結果、相手の行動を裁くならば、分かってないってことだ。

 そこはシンプルに、「分からない」でいいじゃない!

 見栄を張るな。

 悪いもんは悪い、でいいやん。気持ちが分かる、などと軽々しく言うな。

 本当に理解したら、「けど」という接続詞はすぐ後になんか出て来ない。



 あなたに、いくら熱い思いがあっても。

 そんなこと他人には、直接関係がない。

 その距離感をわきまえておくほうが、要らぬやけどを負わないで済む。

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