思いが通じれば
『シンドラーのリスト』という名作映画がある。
ラストシーンの、シンドラーがカネとコネを駆使しまくって救ったユダヤ人たちとの別れの場面。
「この指輪も渡していれば、この車も惜しまなければ……あと10人は救えたのに……」
主人公がそう言って、泣き崩れる場面がある。その時、次のように思ったユダヤ人はその中にはいなかったはずだ。
「そうだよ、このバカ! お前がお役人にもっと渡せるもん渡してりゃ、もっと数が救えたんだよ、確かに!」
なぜ、シンドラーの言葉を聞いて、本当にその通りだもっと救えたのに、と誰も思わないか?
●思いが通じたからだ。
シンドラーの『思い』に納得したからこそ、皆感謝こそすれシンドラーを責める者はいなかった。彼らが魂の存在として最も欲したのは救えた数よりも『他者の思いへの自分なりの納得』だったからだ。
それこそが、最も必要だ。逆に、それさえあれば何がなくとも生きていける。現実上の多少の不便や損害があっても、それがあれば納得して生きていける。
私見であるが、この「思い」さえ大事にできる人生であれば、私は「成功」であり「勝利」であると見ていいと思う。実際に幸せに見えるかどうか、実際に何を得たかが基準になることが多いが、この世界は個性も考え方も違う大勢の思惑が絡むゲームだという点を忘れてはならない。
思い通りにいかないこともある。いくら真心からの思いでも、「思いが通じない」 という現象だって起こる。だから、結果の是非でその人の「幸せ」を問うのは酷だ。
たとえ結果は左右できなくても、少なくともあなたの側でいつだって後悔のない「思い」を伝え続けられた、という自信があったらかどうか?
そこが問われて然るべきだと思う。他の要素は、すべて二次的なことだ。
筆者は、常に自分に問うている。
本当に、いつどこに出ても恥ずかしくない思いを抱いて、自分を表現できているか? 人から何か言われて恥じたり、言い訳したりする自分でいたりはしないか?
生きていれば、間違いや失敗と見える事も起こる。でも、その起こった事に関係なく、自分の「思い」を大事にできているか?
誤解してほしくないが、自分の思いを一番大事にしていたら「譲れない」「間違いを認めれない・謝れない」のではない。大事にしているからこそ、誇っているからこそ「素直に謝れる」ものなのである。
『ごんぎつね』という児童文学作品がある。小学校の頃、国語の教科書に載っていて覚えている人も多いだろう。
悪さばかりしていたきつねが、ある時非常に後悔をする。その罪滅ぼしに、と思い悪さをしたある村人の家に、食べ物を置いていくようになる。もちろん、バレないように。
でもある日、気付かれて猟銃で撃たれれてしまう。無理もない、何も知らない村人には「悪さばかりするとんでもないきつね」なのだから。
「そうか、食べ物を運んでくれてたのはお前だったのか……」
この世界は、ゲームである。
ゲームを複雑に、そして面白くするために「真心が通じない」可能性を作った。
それぞれの解釈や視点で、どうとでも取れる可能性を作ることで、入り組んだドラマが生じるようにした。だから、この地球ゲームに参加エントリーする命には、それなりに覚悟が必要だ。
もちろん、思いが通じる美しい場面もある。我々は、「思いが通じる」ことを望ましいとしながらも、そうでないことが起きてもそれはそれで受け入れた上で、さらに自分の思いや行動を選択していく。そういうゲーム。
ごんぎつねは、最期の瞬間、決して自分を撃った村人を恨んではなかっただろう。そうと分かる描写はないが、きつねには「覚悟」が常にあったと筆者は読んでいる。
ごんぎつねのような覚悟をもって、私は生きているか?
それを常に自分に問いながら、生きている。
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