真犯人を見誤るな

 ある時、こういう相談を受けた。



●どうしても、自分が好きになれなくて、自己否定してしまうんです。

 どうやったら、自己否定をやめられるでしょうか?

 どうやったら、自分を好きになれるでしょうか?



 ここで、ひとつ崩した方がいい前提がある。

 本当に、「自己否定」が問題そのものなのだろうか?

 推理物で言えば、「犯人と思いやすい(ミスリードされやすい)人物」に過ぎないのでは? ということ。真犯人は、別にいる! そういう可能性はないか? ということである。

 実は、いるのである。自己否定そのものは、犯人ではない。だから、自己否定をやめたら問題は解決か、というとそうでもない。

 頑張って自己否定をやめても、それは表面的にやめただけで、あなたの「性根の部分」は何ら変わっちゃいないので、一時しのぎでしかない。

 さぁ、では真犯人はどこに?



●自己否定自体は闘うべき敵ではない。

「自己否定することが良くない」という価値評価が真犯人である。



 例えば、『刃物』を考えてもらったらいい。

 刃物そのものに、「いい悪い」という絶対的価値基準はありますか?

 殺人や強盗で、「人を刺す、脅す」という目的に使われるなら、そこには「悪」という価値(評価)が生み出される。しかし一方、刃物で料理を作ったりすることで、人を喜ばせることにも使える。その場合、「善」だとか「愛」だとか名付けられる価値を生むことになる。

 つまり、刃物そのものに宿る、誰にとっても絶対な価値基準など存在せず、すべて「それを扱う人間側の意識の問題」となるわけだ。どんな意図をもってそれを使うか、という。



 この世界に生きていて、絶対に自分を嫌いになるなとは言えない。

 そういう可能性も体験したいのが、宇宙だから。でも同じ嫌いになるのなら次のふたつの



①「こんなのはいけない! まったくダメだ」と自分を責める思いで完全自己否定して、さらに嫌な気分にひたるのか。



②それとも、「気に入らない結果なのは確かだが、少なくとも自分にとっての最善を生きてきて結果今こうなんだから、これも仕方がない」として受け入れ、健全に自己否定するか。



 筆者は、断然②がオススメである。

「アハハ! オレ、自分嫌い。なんか問題?」

 清々しく、自己否定。

 これ、みなやりつけてないので「そんなことできない」と思うだろう。でもできるのさ。皆やってみたことがない、体験したことがないだけ。

 健全に自分を嫌えばいい。



 刃物の例でも分かっていただけたと思うが、「自己否定」とは刃物に当たる。

 それ自体に、問題があるわけではない。真に悪さをするのは、刃物を使う人間の意図の側。自己否定は悪いもの、するべきではないもの、という刃物の使い手の意識が問題なのだ。

 悪いものだと自覚してやっているので、当然そういう「悪いことをしている当の自分」も理想的な状態ではない、と判断せざるを得ない。当然、自分へ下す評価は良くないものとなる。

 そのジャッジこそが、悪者。



 刃物の問題じゃないよね。使う側が、意識を変えればいい話。

 刃物がそばにあっても人殺しや強盗などしようと思わなければいいだけの話で、刃物は悪くない。

 単に「自己否定をしなければいい」というのは、問題を刃物だけにあるとする乱暴な理屈。世界から刃物を無くせば、事故は起こらない。そういう理屈。

 でも、それではこの世界は面白くもない世界なる。危険もないかわりに、楽しみもない世界になる。

 この世界から悪が無くなる、という理屈と同じだ。そういうことを言うのは、地に足のついていない、夢見夢子さんである。

 二元性の世界に身を置きながら、何を言っとるか。



 自己否定って、弁護するわけではないけど悪いことではないよ。

 それが良い物事を生むもとになることだってあるよ。

 不安とか恐怖も、そう。喜びやワクワクばかり脚光を浴びてるけど、世の発明や役立つモノや制度の中にも、恐怖や不安のお蔭で世に生まれたものも存在する。

 そのことに目を向けようとせず、「無条件の愛」とか「喜び、ワクワクだけが良いものを生みだす」とか、一面的でしかないことを真理のように言ってしまったりする。実に迷惑な話である。



 金田一少年や名探偵コナンが、目先の事実や現象に踊らされず、その奥に隠れている真犯人を言い当てるように、我々も目の前の分かりやすい「問題点」を簡単に悪者扱いするのはやめよう。そして、その問題さえ解決すればすべてがOK、というご都合主義の夢から醒めよう。

 雑草は、土の上に出ている見えている部分を刈り取っても、根っこがそのままならまた生えてくる。同じように、自己否定という見えている草だけ刈っても、あなたの意識の根っこがそのままなら「刈る→また生える」の無限ループを何度も繰り返すだけ。

 ちなみに、根っこをどうにかしようと本気で思える精神的段階は、根の上の草を刈る作業を十分すぎるほどこなし、疲れ果てた者がたどり着ける境地である。

 目に見える分かりやすい問題は、問題の正体では決してなく、その奥に潜むあなたの「とらえ方」に問題があることに気付ければしめたものである。



 もちろん、すべてはバランス感覚が大事である。

 ミサイルが飛んでくるなら、一秒でも早く逃げたほうがいい。心のとらえ方がどうという問題以前に、とにかくすぐ行動しないとまずいケースもある。

 女性が痴漢に襲われかけている時に、襲われる本人の意識の在り方などどうでもいいはず。そういう時には、行動優先で走って逃げる。意識もへったくれもなし。

 だから、「時を読む」力が大事。

 今は一体、どういう時なのか。見えている物事に囚われず、落ち着いて自分の意識を問うべき時なのか。それとも、まずは見えている危険(問題)を回避するのがよい、急を要するタイミングなのか?

 結局、スピリチュアルだけとか現実面だけとかそういう偏った話ではなく、スピリチュアル (精神世界上の理想的理屈)と現実の両方を、トータル的に捉えられることがバランス感覚のある生き方だ、ということになろう。

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