他人に失礼なこと

 今回は、スピリチュアル実践者が慢性的にとりつかれてている、ある「やまい」について述べる。

 残念ながら、スピリチュアル実践者どころか発信する側、すなわち「先生」と言われる指導者の人々であっても、たいがい逃れられていない。

 今日のお話の意図は、皆さんを責めるためではない。ほとんどの人ができていない難しいことを責めるのは酷だ。

 今の日本で「字が読み書きできない」としたら、問題だ。だって、流れに従っていれば一定の事情を除いて読み書きできるようになるのだから。「お前、学校で何やってたんだ?」という話になる。

 しかし、大昔のように学校制度が整っておらず、読み書きできないのが普通の世界なら? 高度な教育を受けるカネと時間の余裕のある上流階級だけが、読み書きできた時代があった。そういう状況で、一般人に読み書きできないのか! と責めても仕方がない。

 今回筆者が指摘することは、いわば上級編であり、人によってはその問題が問題だとすら分かっていないので、できてなくても何ら恥じることはないし、むしろできていたらすごい。



 ある日のこと、スピリチュアル仲間とある映画の話になった。

 とても本質的な、スピ的気付きの多い映画だったね、というお話になった。

 そこで、相手が何気ないこの一言。



『この監督、スピリチュアル分かってらっしゃいますよね』



 たいがいの人は、ここで引っかからない。

 そうそう! くらいにしか思わないだろう。完全スルーだろう。

 でも、この会話に違和感を感じないその感覚こそが「病」なのである。何も違和感を感じないことが、もう完全にスピリチュアル界の住人化している証拠である。

 いわゆる「こっち側の人」 になっちゃったのである。スピリチュアル側の人間(宗教も同じ)の人間には、慢性的に次のような症状がある。



●自分が確信した真理(価値観)を絶対基準として、他を判定・分類する。



 気持ちは分かる。

 だって、スピリチュアルという、あなたが「これこそ私が生きる道だ。幸せになる極意だ」と自信をもって思えるものに出会ったのだから。

 そりゃ、あなたは自ら望んでその視点から、世界のすべてを眺めるようにもなるだろう。でも、ツタヤでビデオ借りて再生したらたら最初に「個人視聴用に楽しむことだけが認められており、多人数間での上映や発信は認められていません」という注意書きが文字で流れるでしょ? それと同じで、あなたがそういう生き方、見方をする分にはいい。

 でも、他者をそれで「斬るな」。



 先ほど話題になった映画監督は、会ったことがないし情報が少ないないので分からないが、おそらく我々みたいに分かりやすく「スピリチュアルやってます」みたいな感じではないだろうと思う。

 監督は、スピリチュアルなぞ知らなくても筆者が感心するような映画も作れるし、人生よろしくやれているのである。彼にしたら、自分の思想信条や物事の視点が「スピリチュアル的」かどうかなんて、蚊ほどにも気にしていない。超どうでもいい。ってか、関心がない。

 スピリチュアル側の住人が、身近な知り合いや有名人を「このって人スピリチュアル的!」とか「この人って分かってるぅ~」 と言う時、それはかなりのケースで「残念な一人手遊び」 なのである。

 てめぇで勝手にやってる分には他人に害がないからまぁいい。同類(スピリチュアルな話に興味がありる、あるいは大好き)との間でシェアするのもいい。ただ、エスカレートするとスピリチュアルを知らない(興味がない)人にまで侵略の手を広げて、そういう話をしだす。

 あなたがいくら何かのスピリチュアル好きでも、あくまでもあなたの基準(その教え)から見たひとつの「視点」にすぎない。

 それをわきまえず、「虎の威を借る狐」みたいに、何か自分の知ったスピリチュアルの基準を「すべてに通用する、宇宙基準」と思って振りかざし、あらゆる物事をそれで分析する。

 だから、スピリチュアルなんて縁があるかどうか分からない映画監督に対して「この人スピリチュアルが分かっている」と言えてしまう。「この人分かってる」イコール「この人残念ならがスピリチュアルの価値分かってないかもしれないけど、伝えていることは本質(スピリチュアルが要求する基準)からさほどズレていない」と翻訳することができる。

 そう言い換えてみると、ちょっと傲慢な言葉だということがワカリマスカ?



 これはスピリチュアルだけでなく、宗教が一定以上成長しない理由の一つとなっている。

 どんなに勢いのある新興宗教でも、世間を席巻することは不可能である。

「この世界における宗教はバリエーションであり、クラブ活動。違いをこそ楽しみに来た」という側面(存在意義)があるので、消滅はしない。(あれほどの不祥事を犯したオウムでさえ絶滅していない)

 しかし、信者はその世界でだけ通用する「教義」で何でもかんでも情報処理しだすので、それで矛盾を感じないうちはいいが、症状の軽い人・バランス感覚を失いきってない人から違和感を感じ出す。

 筆者ですら、スピリチュアル側の人と会話していて、相手がやたらその基準で世間や事件・有名人を分析するようなお話を聞いていて、辟易することがある。

 もっとフツーに考えたらええのに……


 

 クリスチャンの頃、ある専門用語があった。

 まだ洗礼を受けていない人、つまり信者ではない人のことを「ノン・クリスチャン」、略して『ノンクリ』と呼んでいた。単に「未信者」と表現することもあるが、我々の教会はその業界用語を当たり前に使っていた。

 新規獲得を目的としたイベントを催す時に、舞台裏で交わされる信者同士の会話。

『今日のイベント、ノンクリ何人来る?』

 何だか、違和感を感じる言い方であるが、当時は平気で使っていた。

 悪気はないが、無意識のうちに「正しい真理を知り、従っている側」と、「まだそれを知らない救ってあげないといけない側」という明らかな区別が存在している、ということである。



 私が本書の初期の記事で、「認識しないものは存在しない」という内容に触れたことがある。あなたの後ろには何もない、とか今あなたがいない遠い場所は存在していない、とかいうやつ。

 だから、スピリチュアルなど人生に関係ない人にとっては、見えてなくても後ろにいろいろな建物や人は「ある」のである。

 奇しくもスピリチュアルに深く関係がある側の私たちが、関係ない人のことで「あの人はスピリチュアルを知らないだけで、知る知らないに関わらずスピリチュアル的法則は適応されている」と勝手に想像しているのは滑稽である。

 ただしこのことは、重力の法則などのようなものとは区別して考えねばならない。



①人間全体がゲームを行う上で、舞台設定としての皆が従うべき普遍ルール



 → 重力の法則、化学・物理法則、医学、その他科学的法則



②個々人のシナリオ・思想や信念によって縛られたり縛られなかったりする準ルール



→ 宗教的教義。科学や数学とは別な精神世界的法則。自己啓発的内容や人生訓・格言。


 

 ただし、思いの強さによっては、①さえも捻じ曲げるケースがある。

 ただ、そうは言っても、①は生半可なく強い縛りである。特に重力などに関しては、縛られなければ働かない、なんてことはまずない。

 悟った人は高層ビルの屋上から飛び降りても死なない、なんてギャグマンガな現実はない。重力に縛られているという思い込み(ブロック)を外して、スイスイ宙を飛んでいる人を見たことがない。おいおい、思い込みじゃなくてそりゃ現実ってやつだよ! 

 そこまでできる人が仮にいたとしたら、もうこの世でやることがなくなってしまうだろう。生きるのに飽きてしまう。



 ヨソはヨソ。ウチはウチなのである。

 あなたがどんなに素晴らしいスピリチュアルの教えに属していらっしゃるかは知らないが、あなたの外の世界をその物差しで測らない方がいいと思うよ。

 測ってもいいけど、それはあくまでも物事の理解のひとつの側面でしかない、と知っておくこと。そうことをわきまえた上で、確信犯的にやるのはいい。そしてはじき出された見解は、自分の胸の内にしまっておくか、価値観を共有できる者(スピリチュアル仲間)などとの間のシェアに留めておく。

 スピリチュアルは、興味のない他人に語らなくていい。広めてはいけない。新規開拓などするな。

 これは、必要なら勝手に広まっていく性質のものだ。力んで教えて回るものではない。本当に良いものなら、無理に頑張って広めようとしなくても自然に広まる。

 広めるなというのは、何もするなということとは違う。

 やりたいことをやればいい。それが発信ならやったらいい。スピリチュアルなお話会も、どんどん開催すればいい。

 ただ、「広めよう」という目的(下心)のもとに動くな、と言っているだけだ。

 現に私も、言いたいことを言いたいように言い、したいことをしたいようにやっているだけだ。ただ楽しいと思うことをやっているだけで、何らかの到達目標や目的観をもってやったことは一度もない。



 無意識のうちに、人は自身の頼みとする真理(あなたが現時点で到達した)を絶対として、何の疑問も抱かずそれで見える世界を、すべての情報を解釈している。

 もちろん、生きるということは「解釈すること」と同義語なので、しないと生きていけない。だから、自分なりの納得をもって解釈を施していくしかない。

 ただ、他人という別ワールドから見た別解釈もあり、それはそれでまたひとつの真理なんだ、ということを併せて理解しておくのがいい。それが、大事な「バランス感覚」である。

 その感覚でいくと、最初の話の映画監督は、多くの人にとってはスピリチュアル的なんかではない。そう見るのは、我々スピリチュアル関係者だけだ。



 最後に、補足。

 もちろん、あなたがスピリチュアルで到達した境地と、スピリチュアルを知らないで芸の道やスポーツ・格闘技その他、色々な手段を極めることで、アプローチは全然違うが「同じ種類の悟り、気付き」に至ることはある。だから、あなたが純粋にそのことを指摘したいのなら、問題はない。

 ただ、「あの人、スピリチュアル的よねぇ」 「あの人、(スピリチュアルが)分かってる人だと思う」っていう言葉が使われれる時、観察してるとほとんどの人が純粋にこの意味で言えてないんだよな。

 やっぱり、どこか無意識に自分の確信を立てている部分が見え隠れするんだよな。どこか、「私はこの世の本質を分かっている」という上から目線を感じるんだよな。

 そして、無駄に世の色んなものにスピリチュアル的価値判断という名のラベルを、ベタベタ貼りまくっている。大して害がないなら放っておくのが楽だが、多少お節介でも言ってあげるのが吉だろう。

 だから今回、あえてツッコミを入れてみたのである。

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