愛と弱さと希望

『怪奇大作戦』というドラマシリーズがある。

 大昔に、円谷プロの特撮番組として、ウルトラマンやウルトラセブンと並行して制作された。特撮技術が今ほど進んでいない当時としても、かなり怖い作りになっており、幼少時にうっかり見てしまってトラウマのようになってしまった人もいるのではないかと思う。

 私などは小学生の頃、フランス人形が刃物を持ってスーッと動きながら人を襲いにかかるシーンを思い出しては、夜中トイレに行くのにかなり勇気を出した。



 しかし、この番組は、単に怖がらせるだけのドラマではない。毎回、そこに深い人間ドラマがある。

 怖く見せているが、そこに人間の弱さと、それでもなお愛そう、生きようとする人間の泥臭い生き様がしっかりと描かれている。見せ方はスピリチュアル的な学びや気付きに向かないと思われても仕方がない面があるが、なかなかどうして。本当に、骨太の人間ドラマを見せてくれる。

(もうね、子ども向け番組じゃないよね、これ……)



 今回、そのドラマの中のあるお話を紹介したい。

 大昔のものではなく、現代のリメイク版です。タイトルは『怪奇大作戦 ミステリー・ファイル』(2013年作品・上川隆也主演)

 その第一話「血の玉」以下、そのあらすじである。



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 不可解な連続殺人が起こる。

 人間の体液が全部抜かれて、ミイラ化した死体が相次いで発見される。

 警察の手に負えず、そのような難事件を専門に扱うS.R.I(特殊科学捜査研究所)に依頼が行く。

 対怪奇現象のスペシャルチームである彼らは、「血液」こそが犯人の目的であること、ヒトの血液を抜き去ることのできる遠隔操作可能な特殊な機械を使っての犯行であることを突き止める。

 さらに手がかりを追っていくと、ある犯人像が浮かび上がってきた。このような犯行が可能なのは、機械工学のみならず生体化学にも専門的知識のある人物だけだ。



 M博士は、まさにその条件に合う人物であった。

 彼には、治療は不可能とされている奇病にとりつかれた娘がいた。本来ならば、どうにもできない。普通の親なら、あきらめるしかないところだ。

 ただ、このケースで特殊だったのは、父親が天才的な科学者だったことである。娘を助けたい執念は、ついに娘の病を治す方法を発見した。

 しかし、そこには問題があった。人間の、しかも生きている状態の人間の血が大量に必要だったのだ。

 あまりにも娘を想い過ぎた博士は、修羅と化す。子どもを救うために、吸血殺人マシーンを開発し、血を回収して回ったのである。



 SRIのメンバーに追い詰められるM博士。

「オレにはもう、娘だけなんだ」

「そのために他の人間の命まで奪うんですか」

「俺は、親として出来る事をやってる」

「亡くなった奥さんが生きていたら、あなたのことを許すと思いますか?」

「許すさ、決まってる。全部娘のためなんだからな!」

 M博士は、もう一息で娘は助かるんだ。だから見逃してくれと懇願する。もちろん、そんなこと認めるわけにはいかない。そのために、誰かの犠牲が必要になるのだから。

「この手に浮き輪を持ちながら、娘が溺れるのただ黙って見ていろというのか?」

「それが人の生き血で膨らむ浮き輪ならば、黙って見ているわけにはいきません」

 これ以上どうしようもないと観念した博士は、自らの体を使う。

「あとのことは、頼む……」

  そう言い残して、博士は息絶える。人の血ではなく、最後は自らの血で「浮き輪を膨らませた」。

 それが博士にとっての娘への愛でもあり、最後に残った良心でもあった。



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「我が子のためなら、世界を敵に回しても良い。悪にだって手を染める」

 どんな親も、切羽詰まればそんな夜叉を心に飼うことになる可能性はある。

 普通の親なら、このような事件は起きなかっただろう。ただ、M博士には愛するものを救う知恵と技術があった。

 博士と普通の親との違いはそこであり、我々は決してこのお話の父親を「狂ったやつ」と唾棄した視点で見るべきではない。僅かでも死ぬはずのわが子が助かる希望があれば、人はそれに懸けてしまうのだから。

 大切な娘を救う唯一の手段であり希望が、他人の生き血を奪うこと。はっきり言い換えれば他人の命を犠牲にすること。希望を求めれば求めるほど、博士は夜叉と化し、自分自身と周囲に猛毒を撒き散らしながら生きて行く。

「愛こそが死に至る毒」とも言えるし、見方によっては「残酷な希望」こそが毒だ、とも言える。



 今回、筆者がこのお話を紹介した意図は何か。

 人は、平時にはいいが追い詰められると(しかもそれが失いたくない大切な人の命に関わる場合)とんでもないことをしかねない、危険で弱い生き物なんだぞ、ということが言いたいわけではない。また、人なんて追い詰められれば所詮この程度、と言いたいわけでもない。

 むしろ、その逆である。最近、本書では折に触れてお伝えしてきたのは——



●弱さこそ、強さ。



 新約聖書にも出てくる言葉である。「弱い時にこそ、私は強い」、と。

 間違えないでいただきたいが、だから他人の血を見境なく奪った博士の愛は、実は問題ではないんだとか言いたいわけではない。彼の弱さは、ありのままそのままで良かったんだ、一切責めてはいけないなどという暴論を言う気はない。

 そんなことをした彼は(作中では結果自殺してしまったが)社会的責任を負うべきであるし、司法制度の取り決めにのっとって法の裁きを受けねばならない。

 それはそれとして償うまでゆるさないまでも、彼が抱いたその悲しみ、苦しみを見つめろ、ということである。この世で犯罪を犯したり結果ひどいことをした人間を、ただの「ひどいことをした極悪人間」にしてしまわないために、我々ができることは何か? が重要であり、それが先ほど述べた『他者が抱いたその悲しみ、苦しみを目を背けずに見る。自分に取り込む』という作業である。

 そしてそれが、その後のあなたの人生において生かされることがあるならば、他者のしたひどいことがまったくの無価値またはマイナスにしかならなかった、という事態を回避できる。

 ひどいことをした人物の存在意義はまったくなかった、という結果を葬れる。



 この考え方は、殺人絶対にゆるすまじ、やった後でいくら反省してもやったことの重みは取り消せない、いや取り消せてはいけないんだという思想レベルの人には反発されるかもしれない。

 それはそれで、正解。でも筆者の世界も、私自身とそれに惹かれる者達の間では、正解。

 物事は、常に「表裏一体」。

 悪いことをしたら、正しさから遠ざかるなんてない。そんなふうに直線軸上だけで考えると間違う。左端を善、右端を悪として、悪を成せばどんどん右側に偏って善からはどんどん遠くなり……なんてことはない。

 善も悪も双方、「同一コインの裏表」と考える方がいい。

 単なる同一コインの裏表の違いなので、いつだって善にとっては悪に、悪にとっては善に変わる可能性があると考えていい。いつだって、それほど時間がかからずに良く変わるチャンスはあるのだ。

 弱さが現実的に現れ出る、弱さを自覚し打ちのめされるということは、裏返せば「強さに気付く大チャンス」でもあるわけだ。人は大変に思うだろうが、コインを裏返すだけなので実は早い。

 弱い行動、(この世の基準で)悪いとされる行動に手を染める者にも、いつでもきっかけひとつで変わる可能性と共存しているのだ。



 別にこのお話を聞いたからといって、気の利いたスピリチュアル・メッセージのように元気になれるわけではない。素晴らしい! と膝を打って感心できるような内容でもない。

 でも、他人の人生を知ることは、あなたの生きた力になる。他人のたどった道を考え思いを馳せるることは、あなたの血となり肉となる。

 あなたが知り得た、感じ得た他人のドラマは、あなたが思いもかけない時にあなたの味方となる。もちろん、その人生を送った当人にしか本当のところは分からないという限界性があるのは、百も承知だ。でも、それを差し引いても、人の生き様を知ることは大きな利益となる。



 だから、一見悲しいだけに見える今回のお話も(フィクションではあるが)、きっとあなたのお役に立つ。そう思うからこそ、紹介した次第である。

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