今かこ。

 今日の話はややこしいので、頭を柔軟にして聞いてください。

 スピリチュアルの世界、特に悟り系のカテゴリーに身を置いていると、よく聞く言葉がある。それはもう絶対の信頼をスピリチュアル実践者から得ていて、誰も疑いすらしない言葉。それは——



●今ここ。 



 この言葉ほど、表面上の言葉が分かりやすすぎるだけに誤解され、独り歩きしている言葉はないだろう。

 今日は、この「今ここ」について考えたい。悟り系スピリチュアルの最先鋒に立ってこの内容を訴え続けてきたあるブログでは、こう定義している。



●「いま」とは時間のことではなく、存在そのものの別名であり、あなた自身のことです。 

 「ここ」とは場所のことではなく、存在そのものの別名であり、あなた自身のことです。

 したがって、「いまここ」とは、存在する全てであるところの、あなた自身のことです。

 あなたは、いたるところに存在する命そのもので、それはたったひとつの本質です。

 そんな存在の源から、あなたは一瞬たりとも離れたことがありません。

 その源があなたの居場所で、それは常に「ここ」にあります。

 この宇宙には、あなたしか存在していません。



 もちろん、このことは本当である。間違いない。

(今日の議論では、混乱を避けるためそう言っておく)

 でも、こういう言葉上の説明だけで正味の本質を分かることは不可能。

「ああ、なんだ!そうか!」という時が来るまでは、多分捉え違いをする。

(それはそれで大事な体験です)

 今日は、多くの人が捉え違いをしているであろう「今ここ」について、考えてみることにする。 


 

 過去も未来も存在せず(直線的時間の流れは存在せず)、今ここしかない。

 だから、思考を使ってありもしない過去や未来にフォーカスし、軸足をそちらに奪われるべきではないと。今に在れ! 今起こっていること、今感じていることに十二分に目を向け、意識せよ! と。 

 今ここは時間じゃないとせっかく教わっても、やはり言葉の魔力には勝てない。いつのまにか、「NOWナウ」としての今が大事、に油断したらすり替わっている。

 たいていの人がこの程度の「今」理解であり、ワンネス体験でもなければたとえ覚者の言う通りの把握をしていても、知識レベルの理屈理解にとどまっている。

 ここからは今ここという言葉を、冒頭に示した本来の定義ではなく、多くの人が誤解する地点(位置づけ)としての「今ここ」という意味合いで使うことにする。

 だとしたら、こういうことが言える。



●今ここ、しか存在しないのではない。

 実は、その『今ここ』のほうこそ存在しない。



 DVDをプレイヤーを再生しているとする。

 そのプレイヤーは、TVモニターにコードで接続されており、映像情報としての電気信号を送っている。その受け取った情報に従って、モニターは映像と音を伝える。

 さて。DVDプレイヤーがディスクの情報を読み取り、それがコードを伝わってモニターに到着するまで、コンマ数秒にも満たない短い時間とは言え、『時間が経っている』。ということは、モニターに何らかの映像が出た時点では、すでにモニター上では 「過去」 になっている。

 それと同じ理屈で、我々がこの世ゲームで触れるもの見るもの感じるものすべて、本当の意味での『今』ではない。我々は「今」と名付けられた過去にしか触れていないのだ。



●この世界での実情をあえて言えば——

 この世界では、現在も未来もなくただ『過去』だけがある。



 だから、今ここではなく『今かこ』。

 ただ、次のような意見もあるだろうことを承知している。

 確かに、思考が認識するという世界では、コンマ数秒の時間が必要だから、頭で捉える物事はすべて過去になっているということは認めよう。しかし『感じる』という分野だけは「今」であると言えるのではないか? と。

 だから、『Don't think. FEEL!』というブルース・リーのセリフがもてはやされる。

 筆者の私見では、この感じると言うことさえ、やはりタイムラグがある。感じた時には過去になっている。だから、この幻想世界に身を置いている以上、すべて過去なのだ。触れることのできない「今」の残像を追い続けるしかないのだ。

 だから、普通の意味では、この次元レベルでは「今ここに在ること」などできないのだ。



 本当の今、とは『無』である。

 ベタに言えば、今とは「くう」のことである。

(我々二元性世界の住人にとって)な~んにもないのが、「今」である。

 だから、映された映画を観客席で見ることしかできない設定の我々では、理屈上内容に触れられない。

 悟りというのは、そのことが理解できたうえでなお、限界があり正確には捉えられないとはいえ「くう」についてたった1%程度の理解にでも「かすった」状態を言う。

 だから、覚者でさえ実像をつかめないのだから一般のスピリチュアル実践者ならなおのこと分かるのが難しい。その難しい具体的な理由は——



くうとは何か、と考える主体(あなた)と考える対象としてくうを位置付けている。相手は、人間が考える「対象」にできるものではない。



②実は、①はぶっちゃけやりたきゃやっても全然構わない。どんなやり方だろうが自分にくつろげていたらそれでいいのだが、皆正解とか正しいやり方とか、きちんとできている人と同じになることに価値を置き目指そうとするので、余計にできない。趣味の範疇でやればいいのに!



 本当の今とは、何も起こっていない、何も生み出されていない「ゼロ」である。

 だから、今ここに生きるという内容を、今目の前で起こっているそのこと自体に全面的に取り組み、決して過ぎた過去や起こってもいない未来に思いを馳せて今という時間を無駄にするな、という程度の意味に捉えていたとしたら、底が浅い。

 だから、「今ここに生きる」ということに本当に意味を持たせるとしたら、もう目の前に現象化して起こっていることは全部過去だ、と言うしかない。それは、撮られた映画が再生されているのと同じように、どうしようもないものである。

 だから、今今言って力んで、頑張って今を感じようとするのではなく、もっと楽に、映画を見るように過去の残像(本当の今ではなく皆が言う今)に向き合う。そして、もしあなたが自分を変えたいとか、現実を変えたいとか思ったら、まったくのゼロである「今」に意識を合わせると良い。ちょっと難しいが「こうしてやろう」という顕在意識で分かる「意図」を超えた部分に合わせる。

 あえて、意識を向けるという言い方をしない。先ほども似たようなことを述べたが、意識を向けると言った時点で、意識を向けるあなたとむけられる今(くう)という対象があるという前提をつくり、アウトになるから。

 あなたの正体はくうそのものだから、意識を向けると言うよりはそのものであると思うほうが方策としては正しい。

 その意識状態を無理やり言えば、この世で言う「あなたと私」「あれとそれ」というような分離感が薄れた状態。(究極には、薄れるどころかなくなる状態。これが、覚醒体験と呼ばれることが多いが、言葉で言うのは簡単で実際はなかなか!)



 ここまで述べたことから、「今ここ」に生きると言うことは、私が先ほど指摘した意味で行うなら、的外れではない。でも、そのように使えているのは一部で、大概の人は浅い意味で今と名付けた、本当は今の残像に過ぎないものにしがみついて生きようとしている。

 あなたが今、今と必死に向き合うそれに「今」はないのに。

 ただの過去なのに。



 ……とここまで考えを突き詰めると、ひとつの帰結点に行き着く。



●ええい!

 こんなこと意識して生きるなんて、面倒くさい!

 もう、フツーでええやん。

 スピリチュアルを知る前に生きていた、あの感覚。

 朝起きて、夜寝るまで、やることやって思いたいこと思って。

 今しかないとか過去も未来もないとか、マインドだとかエゴだとか……そんなこと気にもしないで、色々あるけれど楽に生きていた日々。

 あの日のごとくでもういいやん!



 そう。

 筆者もこの記事を書いていて、だんだん面倒くさくなってきた。

 結局、この幻想次元で触れるのは全部過去(再生された映像データ)なんだから、過去を思い出して意識が記憶の中にお出かけしても、いいじゃない。

 今目の前の事に真剣に取り組んでもいい。未来の事を想像して、意識のフォーカスがそっちに飛んでもいいじゃない。

 これら、全部同価値。どれでもOK。好きなのを選びなされ。

 今ここに意識を置くことのほうがよいとか、地に足が着いているとか、大きなお世話だ。好きなように生きさせろ。



 今日は誤解を受けやすい、きわどい内容なのでもう一度以下におさらい。



①幻想現実レベルの話では、今ここ(本当の現在)など存在しない。見れるのは過去だけ。



②感じる、ということさえもリアルタイムに思えるが実は時間差で、やはり過去。



③今、なんて捉えられないんだから、過去に浸ろうが今を生きようが未来に思いを馳せようが、好きにしろ! どれやっても同価値で、それであなたの値打ちが下がることなどない。



④今ここ、と皆さんが言うものの正体は存在しない「無」のこと。くうのこと。



⑤我々は三次元キャラなので普通は無に触れることはできないが、正体自体がそもそもそれなので、何かの拍子に(シナリオにより)その「無」とのつながりに目覚めることがある。これを、あえて皆さんが言っている言葉を使えば、覚醒と呼ばれる。



⑥その時、限界はあるものの初めて(存在しない)今とある意味でひとつになれる。



⑦これは努力でできることではなく、人生シナリオで決められている。



⑧ちなみに、この状態に至った者と至っていない者との間に価値の上下はない。



⑨ここまで考えて頭が痛くなったり、面倒くさくなった者から、スピリチュアルを捨てればよい。



 ややこしいが、ここから本当の『今ここ』の定義に戻ろう。

 今は存在しない、それは無(くう)だと言ったが、真の実在はその空 (唯一の存在意識、ワンネス)のみ。

 ということは、無(空)こそが真の実在であり、唯一存在するもの。

 逆に、我々自身や見るもの聞くもの触れるもの、この世界の具体的存在全ては幻想。まやかし。実は存在しない。

 だからこっち(現実世界)のほうこそが、「無」 だとも言える。



 その観点においてこそ、『今ここ(空)しかない』 という表現はその通りだ。

 でも、ちゃんとその観点に立脚して「今ここ」という言葉を使えている人は何人いるのか?

 大概は、目の前で今起こっていることや今感じること思うことに意識を割こうと頑張っている感じではないのか。過去に囚われたり、未来を夢想したり過度に期待したり不安がったりせず、今を大事にする程度の考えなのではないか。

 もう、過去と今と未来に差をつけて考えるのやめません? 今という対象に、度の過ぎた価値を与えるのやめません?

「しまった!今ここじゃなかった!」

 これ、一番笑えるスピ実践者の言葉。どこだって同じこと。

 あなたがあなた自身をOKとしていれば、時間軸のどこに意識を向けても害はないのだ。



 スピリチュアルというのは、筋金入りにちゃんとやろうと思ったら、かくのごとく大変なのである。

 手間である。面倒くさい。さらに言えば、知ったからどうということはない。それどころか、知ったことで下手に苦しみが増すことがある。

 やってもやらなくても同価値なのだから、ここまで言ってもやりたいという人でなければ、手放したらいいんではないだろうか。そして、スピリチュアル的な概念など何もこねくり回さなかった昔に戻ろう。

 現在、過去、未来に関しては会話上の『時制』的な意味合い以外要らない。価値の上下は考えない。過去や未来は存在しない、などという面倒くさい考えも捨てる。



 これを、「360度人生が変わる」と表現できるのである。

 結局、もとの位置に帰り「そもそもこれでよかったのだ」と思うこと。

 それも、悟りだと言える。

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