喜びと幸福の定義

 スピリチュアルでよく「喜び」とか「ワクワク」が大事だとか言いますよね。そして、不幸であるよりは「幸せ」がいいとも。

 だから、この世ゲームにおいて人はそれらのものを良いとして、目指す。そして、その「良いとされるもの」とは反対のものを避け、忌み嫌う。



 この世界では、陰陽という概念というか、そういうお約束ルールがある。

 喜びとか、幸せとか、ワクワクとか。そういうのって、陰陽で言えば『陽』。

 悲しみとか、不幸とか、望みも期待もない感覚って、陰陽で言えば『陰』。

 


●私たちって何故か——

 その陰陽の『陽』のほうにばかり光を当てるんだよね。

 本来すべてが同価値なのに!



 この世界は、細かく局地的に見れば偏りがあるようでいて、宇宙規模で大きく見れば、それはそれは絶妙なバランスの上に成り立っている。

 偏りは、長い目で見れば必ず是正される。ということは、この宇宙を支え得ているもののひとつは明らかに『バランス』である。

(だから神意識はあえてこんなちっぽけな遊び場である物理宇宙を作ることで、幻想でしかないけど局部的な『アンバランス』を観察して楽しもうとしたんじゃないかな?)

 ……ということは、陰陽のどちらかに偏ることは最終的にはない。すべての可能性は、いい悪いなく必ず起こることになっている。

 ということは——



●陰陽の陽だけを歓迎し、陰を嫌っていては、あなたの人生は最高でも『半分幸福、半分不幸』ということに必然的になる。



 すべて同価値でしょうよ。

 筆者はその観点から、「喜び」とか「ワクワク」とか「幸せ」の定義を変えたいのである。

 陰陽の陽的部分で、ハッピーハッピーでキャッキャ笑って過ごせるそのイメージで皆それらを捉えているので、なかなかそうなれないのだ。

 この宇宙では起こることが起きるべくして起こる。それは、あなたの意識の在りようや過去にしたことに依らない。

 世間でメジャーなのは「あなたの意志と力で起こることや未来は変えられる」であるが、それは厳密には不可能である。(切り取った現象としてはそれが可能なように見えるので、世間的な常識としてはこちらで、筆者の方が頭がおかしいとなる)

 人柄や行いの善悪に関わらず、決められたシナリオならその人には何でも起こり得るので、その観点からも人生100%幸せになれる人はいない。

 だって、誰に対しても陰も陽もある程度バランス良く(平等に)起こってくれるから。そんな世界で楽し~いハッピー! の幸せだけを求めて追っていたら、あなたは早晩疲れ果てることになる。

 どれだけ努力したとしても、そういうものだけで人生を埋め尽くすことは不可能だからだ。



 意識の在りようで物事が変えられるんだったら、イエスはなぜ殺された?

 イエスより、引き寄せの法則の著者の方が上? んなアホな。

 まさか、キリストは痛い目に遭って死にたかったとか言わないよね? 実は死にたかったのだとか、フツーの幸せなど要らなかったのだ、とか言わないよね?

 イエスは、33歳での無実の死を望んだり、引き寄せたりしていない。

 すべてはあなたがつくりあげている? とんでもない。

 神意識(この世界をデザイン・製作し観察している主。この世ゲームプレイヤー意識)がすべての可能性を作り上げており、その神意識こそが人の正体だという意味では、すべてを作り上げているのは自分かもしれないが、そこの部分をあえて「記憶喪失」になってやってきている我々には、まったく救いにならない言葉だ。



 あらゆる可能性が無慈悲に正確に起こり、我々が自分の都合で「陽的要素」のみを追い求めても得られない構造に、この世界はできている。そんな中で我々がいつでも幸せであり喜びであるためには、幸せというもの、喜びというものの定義をこれまでとは変える必要がある。

 これまでの定義は——



【幸せ】 あなた個人が、自分の都合や基準において満足できる「陽的要素」のものが与えられている状態。ただし、この諸行無常の世界ではあっけなく奪われることもあり変動的流動的なので、これを幸せとしていてはほとんどの人にとって幸せであり続けることは不可能となってしまう。



【喜び】 これも、「楽しくない」や「悲しい」「辛い」の反対の状態として認識されることが多い。あなた個人の欲望、願いに沿ったことが起っている、思い通りにいっている状態で生じることが多いので、その結果この世界では喜びを感じる機会はそう多めではない。



 では、私が提案する新たな定義は——



【幸せ】 結果(今どうか、成功したか思い通りにいったか)とは関係なく、自分の思いや選択したことなどあなたにまつわる情報のすべてにおいて裁かず、後悔せず『受容できている』状態。


 

【喜び】 陽的側面における「うれしい」とは違い、今苦しく辛い状態であろうが得ることのできる喜びである。それは「自分というものを懸けて、やりたいと思うことに意識を注げている状態」である。言い換えれば、情熱をかけて自分の心の命ずるままに動けていれば、結果や成果に関係なくそれは本物の喜びとなる。



※存在しているだけで、生きているだけで幸せというのは、かなり上級レベルです。だから、今回の幸せの定義では、多くの人々の間で現実的でない超理想論は今回扱いません。生きているだけで幸せ、なんて本質が分かって言えている人は少数で、ほとんどは「人生においてそれほどひどいことが起こっていないから安全圏からきれいごとが言える人」であることが多いです。



 本気(マジ)の人生。

 自分を懸けられる生き方。それでいて、結果や出来不出来によって左右されない生き方。何があっても体験として学び手放せる力を持ち、両手を広げてやってくる今を待っている。

 これこそ「あっぱれな生き方」。

 これは人を選ぶことではない。難しくて、能力や才能のある人にしかできない、ということはない。人間に生まれている以上、例外なくできることである。

 人によっては、「やりたいこと自体が分からないんですけどどうすればいいですか?」と聞くかもしれない。そういう人には、申し訳ないがこう言うしかない。



●その、やりたいことが分からない、という貴重な体験を味わえ。

 そこから学ぶものがある。そのこと自体の中に、あなたが次のステージへ上がるための鍵が隠されている。それを見つけるまで、まぁ頑張れ。制限時間はないから、ゆっくりでいいよ。



 筆者は大きな成功も収めていないし、金持ちでもない。家計も頑張ってやりくりしている。

 でも、私が採用している『幸せの基準』は上記のごとしなので、魂の送ってくる指令のままに、素直に生きれて書きたい本書が書けていること自体が、他を補って余りある幸せだ。もちろん、この世が諸行無常であることをわきまえている私は、明日それが奪われたからといって不幸にはならない。

 何があっても、それも宇宙の理(ことわり)。

 受け入れる以外に、ありましょうや。 

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