愛=執着

 あるドラマでのワンシーン。

 フッた男とフラれた女。

 男は、以前は好きだったがもう冷めてしまったその女がまとわりついてくるのがウザい。なのに女は、ゼンゼンその男のことをあきらめきれず、追いかけて回る。



 男は、言う。

「いい加減、オレのことは忘れてくれ。なぜそんなに執着するんだ? 今のお前はおかしいぞ。そんなの愛じゃないだろ!? 今のお前は、ただ執着しているだけだ!」

 女は答える。



●執着じゃない愛なんて、あるの?

 愛なんてみんな、形を変えた執着じゃないのよ!



 私は、なぜかその言葉が納得いった。

 もちろん、ドラマのこの登場人物の女性の振舞いは決してほめられたものじゃない。このセリフを口にした人物の評価はさておき、この言葉はある面的を射ている。

『執着』とは、そもそも何か?



●仏教において、事物に固執し、とらわれること。

 主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。

 もともと仏教用語であったが一般化し、現代語の執着(attachment)によく似た意味で、煩悩の用語としての rāga(愛)あるいはlobha(貪)に近い。



 つまり、何かの特定の対象に意識をフォーカスさせられてしまう現象。

 一目ぼれ、などもそうであるが、愛(ちょっと違うが恋も)とは自意識でコントロール不可能な場合が多く、何か運命の神のようなものに「踊らされている」ような側面もある。

 これほど(特に男女間のものについて)人の思い通りにならないものはない、と言える。面白いことに、仏教ではこの執着という言葉と愛という言葉を、それほど違わないと捉える。

 だって、愛するというからには、愛する対象が前提となるからだ。つまりは、何かに対象を絞ってエネルギーを注ぐことになる。それすなわち、すでに執着。

 キリスト教を土台とする西洋的発想では、「愛」をもっとも素晴らしいものとする。(もちろん、自己中心的エロースの愛とは区別される。他を第一とするアガペーの愛を良しとする)

 でも東洋の発想は西洋よりも厳しく、特に仏教ではそれ(西洋の基準では愛)すらも注意しないと「執着」 になりかねないと見る。

 ゆえに、仏教ではあまり愛、愛言わない。偏ることなく、生命に対しては等しくその幸福を願うことが良いとされ、それを『慈悲』という言葉で表現する。



 よく考えてみてほしい。

 愛なんて、彼氏彼女とか夫や妻、親子ども、恩師や後輩、そして親友というように、注がれる対象は必ず限定的である。

 全生命に平等に情的エネルギーを注ぐなんて不可能である。

 だがそもそも、人というものは最初からそういうスペックに作られてあるので、悲しむ必要はない。逆に変化や偏りというものを楽しみにこの世界に来たのだ。

 真実である『いち(ワンネス)』よりも、自他という分離や選択、フォーカスという「相手という他者がいないとできないこと」の数々を楽しみに来たから。

「人類愛」などと言っても、やはりそこには「人類」という具体的な対象が存在するわけで。愛という言葉を使うからには、決して「何かの限定的な対象にフォーカスすること」から無縁ではいられない。何かにフォーカスせずには成立しないのが、愛である。

 薄っぺらいスピリチュアルが、すべてを愛そうとかあらゆるものが愛おしい、とか歯の浮くようなことを言っている。でも賭けてもいいがその発信者は、常に人類や宇宙に愛なぞ注げていない。

 腹が減った時に美味いものを食べてる最中、絶対人類への愛を忘れている。男性ならチョー好みのタイプの女の子が出演しているAVの鑑賞中は、宇宙への愛は忘れ去っている。

 皆さんが言う程度の「愛」なんて、気を抜けば絶対に「保てていない状態」になっている。いい加減、「自分は愛から生まれた」なんてことが本当であってほしいという無意識の願望にしがみつくのをやめた方がいい。



 皆さんは、愛から生まれてなんかない。

「無」から生まれた幻想。

 そして愛は、この幻想世界において生まれた二次的産物である。

 宇宙の根源は、無。その無とは、我々の次元で言う「有」の反対の「無」ではない。無は、ただ無。禅問答的で混乱させるかもしれないが、『ただ在る、という名の無』。



 だから、『愛=執着』だと思っていただいて構わない。

 結局、愛には目的語が必要だから。

 目的語のない愛なんて、『絵にかいたモチ』である。

 大して辛い目にも合っていない幸運セレブが、人類を祝福したい気に勝手になっているだけ。思い込みによって「ある」と思われているだけで、常にすべてを愛している状況などない。

 だから仏教は、(色々派閥が分かれてからは別)僧は修行の邪魔として女を遠ざけた。俗的な娯楽品、嗜好品を遠ざけた。「執着」になるから。

 よく、執着があると悟れない、とか言う。それが邪魔になる、とか言う。じゃあさ、この世界でどーやって生きていけ、と?

 皆が皆、仏教に納得して山で煩悩を取るべく修行、ってわけにいくはずがない。そもそも、異性への欲望を避けてどうやって子孫を増やす?

 執着がどうとか坊主が言うなら、人類絶滅覚悟で言わないと、卑怯だ。



●執着がないと、まともに生きていけない。

 執着があったら悟れないというなら、そんなもの悟らなくていい。



 てか、執着があったら悟れない、って誰が決めたん?

 そこの話まで広げると、収拾がつかなくなるのでやめる。

 とにもかくにも、今日言いたいことはこれ。



●愛はどんなに恰好つけても、全部執着。

 だから、愛に程度が高いもレベルが低いもない。

 


 マザー・テレサの愛も、どこぞの若者が女の子に惚れるのも、同じ。

 皆さんがそう捉えることに抵抗があるのは、分かっている。それを承知で言う。

 私には、キリストの愛も、冒頭で紹介したドラマの未練タラタラ女の情も根本は同じ。何かの対象に情的エネルギーを向けているということでは、同じ。

 結局執着だから、たとえ「素晴らしく見える愛」であっても、苦しみというものが生じる。結果として苦しみや悲しみというものが生じるなら、どんなに皆さんが高く評価する愛であろうとも、それは執着であることの証し。

 同じそうなるのなら、間違いかどうかくだらないかどうかを考えて恐れるより、恐れずに愛したらいい。どうせ、何でも同じことだ。



 愛は、執着。

 そして執着は皆、味のあるドラマである。

(観察意識にとっては喜ばれるドラマですらある)

 だから、執着って悪者にしないほうがいいと思う。

 自分が好きなもの、楽しいものに執着して、今日も生きよう。

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