愛はクソみたいなもの

 ひと昔前の韓国ドラマで、『夢見るサムセン』(ホン・アルム主演)という作品がある。

 全80話。韓国版『おしん』のようなもの。

 戦後の混乱期。赤ん坊のすり替えがなされ、本来ソウルにある医院の院長の娘だったサムセンは地方の貧しい農家で育ち、苦労を重ねる。運命の皮肉で、サムセンは自分を赤ちゃんの頃すり変えた張本人、そして彼女に代わって院長の娘となっている人物と身近に接するようになる。

 サムセンはすり替えがバレては困る者たちの意地悪、妨害にも負けず、たくましく生きていく……だいたいそんな感じの筋のはずなのだが、長丁場のゆえにストーリーは右往左往し脱線し、シリーズ後半は「夢見る」どころか昔の「火曜サスペンス劇場」並のドロドロ愛憎劇になっていく。

 この作品、ごちゃごちゃ細かいことが気になる人にはオススメしません。楽しけりゃ何でもいい!って開き直れる人向け。筆者は結構好きです。

 そのドラマのワンシーンを題材に、今回は記事を書いてみる。



 普段仲の悪い、年頃のある男女。(女性はサムセン)

 それぞれに好きな相手がいるのだが、二人ともそれぞれの意中の人とうまくいかず、大変傷付くようなことまで言われてしまう。

 失意の中、偶然二人は会う。日頃は悪口を言い合う仲だが、互いに似た波長を感じたのか、飲み屋で慰め合うような展開に。

 そこで、女が男にこう聞く。



「……愛って、何だと思う?」



 男は、失笑して答える。



「愛って、クソみたいなもんだと思う」



 それを聞いた女は、ため息をついて相槌をうつ。



「そうね……確かにクソよね」



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 普段、宗教やスピリチュアルにおはまりでいらっしゃる 「純粋セレブ」 な方は眉をひそめる言葉だろう。そういう方が好きなのは、すべては愛だとか、キレイキレイな単語の羅列である。愛。幸せ。与える。喜び。ワクワク。許す。受け入れる。怒らない。批判しない……

 私は、そういうことが言える人種は三種類いると思っている。



①スピリチュアル的に突き抜けてしまった人。(でも覚者ではない可能性が高い。覚者ならそんな大味な言葉で世界を表現するような愚かな真似はしない)

②本当にひどい目に遭ったことがない人。

③体験から自分なりに思う所はあるが、尊敬するスピリチュアルの先生が「すべては愛」だと言っているので、頑張って自分に言い聞かせている人。



 今、すべては愛だ何だと公言できている人は、スピリチュアル的にイッてしまった人以外は世の不幸が「対岸の火事」な人。

 人生において、シナリオ上「ひどい」ことが起こっていない。だから余裕がある。でも、たとえば明日あなたのお子さんが死んでごらんなさい。

 もしあなたがスピリチュアル実践者で、すべてが愛だというメルヘンな主旨のブログを日々綴っているような人だったら多分、そのブログは放置か閉鎖されるだろう。

 たとえ再開できても、「すべては愛だ。子どもが亡くなったのも天の意志だ。神様ありがとう!」とは書けないだろう。

 賭けてもいいが、宇宙は愛、愛言っている人の90%は今最大の不幸(もちろんその人にとっての)が襲ったら、同じ口で同じことを言えなくなる。

 残りの10%は、子どもの死さえも宇宙レベルで見つめる強さを持った人である。何とか乗り越えるシナリオだった人である。

 でも、その強さはある種の人々を不快にする。

 もちろん、その強さを持つ人のメッセージを聞いて「私もメソメソしてる場合じゃないぞ!」と思えて、励ましになる人もいるだろう。でも一方で、なかなか立ち直れない人を「乗り越えている人もいるのに、自分はできない」と現状が不十分であることが認識され、追い込まれるだけの人もいる。

 結局、この世界で何かを言ったら、必ず一定数の人にはウケないという話なのだが。発信者は、それだったらもう言わないか、リスクを承知であえて言うかを選択するしかない。



 スピリチュアルを熱心にやっている人が陥りやすいのが、以下の状態である。

 もう一度さっき使ったたとえで話してみよう、普段宇宙のすべては愛、愛って素晴らしい、宇宙に感謝という言葉をブログで羅列しているような人がいたとして。さっき、息子さんが交通事故で亡くなりました。

 犯人は飲酒運転で息子をひいた。なぜ、こんなことで命が奪われなきゃいけない? そんな理不尽感ばかりが湧いてきます。でもそんな時、さすがに熱心にスピリチュアルをやってきただけあり、ある思考が湧いてきます。

 ……そうだ。宇宙は愛だって、すべては愛だって言ってきた。いけないいけない。あれはウソやただのきれいごとであってはいけない。

 こんな時こそ、感謝してみよう。愛だ、って思ってみよう。

 本当なのだから、きっと思えるはず。神は、きっと愛なはず……かくしてスピリチュアル実践者の、不幸を消化するための戦いが始まるのであった。



 だからと言って、「世界は愛なんかじゃない! 一寸先何が起こってもおかしくないんだから、もっと現実を見ろ!」と言いたいわけではない。

 普段、平時には「愛、愛」言っていい。だって、それが自然なんだから。

 でも、思いがけない苦痛な体験があなたを襲った時、普段自分が主張していることを思い出して、頑張って筋を通そうとしないでいい。

 こう思ってしまえる時は、真面目ぶらないでこう言っちゃおう。



●愛なんて、クソだ!



 私は、辛い時も「いや、すべて起こることが起こっていて、それは結局愛だから」と自分を落ちつけられる人よりも、こう思いっきり言える人の方が、人としては好きだ。このような、曲がりなりにもスピリチュアルジャンルの記事中で、汚い言葉を使って恐縮だが——



●この世界は、諸行無常。

 だから、ある時には「愛って素晴らしい」でいい。

 またある時には「愛なんてクソだ!」でいい。

 飾らず、その時の思いを全力で生きたらいい。言ってることの一貫性がどうのなんて生真面目に悩まんでよろしい。

 愛の方では、どう呼ばれようが気にもしないし、そのことであなたを責めないから。好きなように思ったらいい。言ったらいい。



 よく、言霊ことだまということを引き合いに出して、「悪いことを思ったり言ったりしたら、そこにエネルギーが宿って、引き寄せたり(実現しちゃったり)するよ」と言うことがある。だから、ネガティブな考えそのものを頑張ってやめよう、とする。

 筆者が保証する。何を思っても大丈夫。何を言っても大丈夫。

 それが、あなたのこの先起こることに関係することはない。(ただしあなたが人生の主人公の権限で、自らの言葉にエネルギーと権威を異常に与えすぎない前提で)

 だから、現実化することを怖がらず、好きなように思いを巡らせていい。

 心の自然に趣くまま、成すがままでいい。



 ちょっと抵抗あるかもしれませんが、正直苦しい時には一緒に叫んでみませんか。

 いいや、これも愛だといい子ぶらずに……



『愛って、時としてクソだ!』



 それでいいんじゃないか。

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