見たいように見、聞きたいように聞いていい

 Every Little Thingの往年の大ヒット曲、『Time goes by』。

 リリースされ、ヒットしだしたのが1998年。

 この曲に関して、実はこういう裏話があったらしい。

 2008年に、ボーカルの持田香織が当時を振り返ってこうコメントした。



●当時は、この曲を『歌詞の意味を理解せずに歌っていた』。



 私は、そのことを聞いて最初驚くとともに、でもすぐに納得した。

 この事実は、私たちに大事なことを教えてくれる。



●真実なんて、意味がない。

 真実なんて、どうでもいい。

 この世界には、意識という観察主体が 『どう見たいか』 しかない。



 この曲は、多くの人の心をとらえた。

 実際に私も、聴きながら涙した一人である。

 私たちは、よく因果で考えてしまう。



『この人がこれだけ人を感動させられるのは、それだけの内容があるからだ。

 それだけ、本物だからだ。

 歌詞の内容、その精神性(哲学)を理解しているからこそ、人の心に届くのだ』



 自分がよく分かっていないものを、人に分からせることはできない。

 ましてや、感動させるなんてできない——

 そういう発想が、我々のどこかにあるのだ。

 次のような例もある。

 奇跡のマリア像、というのがあってそれが時折、涙を流す。それを見て、祈りに来ていた人は心打たれ、心を入れ替えて帰っていく。

 でも、神父は知っていた。その涙が、教会の老朽化に伴う『雨漏り』であることを。でも、みんながありがたがっているので、真相を言うに言えなくなった。

 だから、多くの人にとってはやっぱり『奇跡のマリア像』なのだ。



 真実なんて、この世にない。

 誤解がないように厳密に言うと、あなたから見た「主観的真実」があるのみで、すべての人にとって絶対に動かない「真実」というのがない、ということだ。

 百歩譲ってあるとして、分かりようがないのだ、そんなもの。分かりようがないものを探求しようとして、皆迷路に迷い込む。そんなもの手放して、自分の心に映ることをそのまま受け入れ、楽になればいいのに。

 皆、「絶対の真実」があるとして、自分が認識できる物事に対して疑いをもつ。

 私は間違っていないか? 何か見落としてないか?

 この世的には、褒められる姿勢かもしれない。でも、ゼンゼン楽しくなさそうだ。



 この世界には、『波動』という概念がある。

 起こることはすべて決まっている、という理屈を受け入れるならば、意味のなくなる概念である。だって、考えてもどうしようもないから。

 波動は、幻想である。でもそれではお話が続かないので、百歩譲ってあなたには波動が見える、波動が分かるとして考えてみよう。

 あなたの思考が認識するまでに、脳内神経を通して処理するまでに(どんなに短いとはいえ)時間がかかる。つまり、捉えたと思った瞬間には過去になっている。

 人間は、生きている以上ほぼ過去にしか接していない。CDやDVDを再生して、見えるもの聴こえるものを認識しているのと同じ。

 何が再生されるかは決まっていて、私たちの目や耳に届くまでにそれはコンマ数秒ではあるが『過去』になる。私たちはこの世界で、どんどん過去となり「今」の抜け殻になった残像だけしか見ていない。

 だから、正味の生ものの波動などとらえようがない。捉えたと思ったところで、それはどうにもしようがないものだ。



 千歩、万歩譲って波動はあるとしよう。そして、それを変えることで物事をよくすることが可能だとしよう。でも、相変わらずこの問題は残る。



●人は、見たいようにしかものを見れない、ということ。

 主観でしかものを見れない、ということ。



 せっかく、「誰にとっても同じものであるはずの客観的な波動」というものがあっても、視点がひとそれぞれだから、違って見える。異なるものとして観察される。

 ある人物のことを、Aは素晴らしいと言いBはキライだと言い、Cは興味がないという。

 ある映画を、Aは面白いと言いBはくだらないと言い、Cは興味がないと言う。

 もし、人やモノがある波動を持っていて、それは誰にとっても絶対である(観察する人によって変わってしまうようなものではない)とするなら。人が自分の思想信条や知識、経験あるいは自分がどう見たいかということでしか、対象を認識できない生き物だとしたら、波動云々を気にして頑張ることはお笑いになる。

 だって意味がないから。ニンテンドースイッチのゲームソフトはあるのに、本体がないから結局遊べない(ゲームがないのと同じ)という状況に似ている。

 誰にも読めない本、誰も食べることのできない料理、というものがあるとしよう。または誰の耳にも聴こえない音楽とか。

 たとえあっても、価値がない。



●波動というものを絶対的に正しく捉える機能が人間にはない。

 


 なぜ、この世に詐欺というものがある? 人に騙される、ということがある?

 本当に、絶対客観的な波動というものがあるなら、伝わっておかしくない。

 人を騙す、ということは全く罪悪感を感じない精神異常は例外として、どこか後ろめたかったり、自分はウソをついているという認識からは逃げられない。それが一定の波動を生むはず。

 そりゃあ、鈍感でバカな人もいるものだとしても、異常だと思いませんか? なぜこんなにも騙される人が多いのですか?

 彼らが単にバカだからですか? そう言いきれますか?

 世間的には良識のある人でも、頭のいい人でも騙されることはある。どう考えても、「正しい波動がある」なんておかしい。

 そんなものない、と考える方が辻褄が合う。ないから皆好きなように考えるし、見たいように見、聞きたいように聞く。で、好きな解釈を施す。

 この世界では、それしか行われていない。覚者でさえ、正しくものを見れていない。彼らは「正しく見れない」ことを認め、潔く手放した人々だ。



 ELTの持田香織は、歌詞の意味を大して理解せず歌っていた。

 でも、そんなこと知らない聴く側は、持田がそういう人生経験と悟りを経て、昇華したからこそ、あんな風に人の胸を打つ愛の歌を歌えるのだ、と思ってしまう。

 でも、それでいいじゃない。雨漏りにすぎないマリア像の涙が、人を騙し続けてもいいじゃない。

 だって、それで人生がよく変わる人だっているわけだし。プラスになっているわけだし。なにか問題?

 真実など、どうでもいい。要は、見る側聞く側がどう解釈したいかだけ。

 外界から自分に入ってくる無数の情報を、「自分は真実を見れていないかも」とヘンに疑わず、感じるままに感じたらいい。そしてそれで堂々としていたらいい。

 はっきり間違えたと思った時だけ、潔く過ちを認めてまた前に進めばいい。



 今日の学びのまとめ。

 絶対的な真実など、この二元性幻想世界にいる以上、触れることはできない。何かについての絶対の正しさ、など絵に描いたモチにすぎない。

 だから、そのことをわきまえたその上で、あえてものを見聞きし、感じ、主観で判断する。その遊びをこの世界にはしに来たのだから、仕方がない。

 どうせ間違うんだから、できるけ正しくあろうとしてグチャグチャ悩むだけ損。直感で、何となくで考えたらいい。

 来る情報を、いちいち疑うな。疑うなと言うのは、なにも「相手が明らかにウソをついていると分かっている、サギだと分かっているのに、あえて疑わず話に乗る」という意味ではない。

 ホイホイ受け入れろ、ということではなく——



●今あなたが経験しているそれが、あなたの人生にとって絶対的に悪いものではない、と認めること。



 もちろん、サギには引っかからないほうがいい。ダメなものはダメでしょう。

 ただ、何かを疑い何かを断るにしても、その一連の出来事は、宇宙の叡智が認めて起こしたことだから、それはそれで最善なのだ、ということに関して「疑わない」こと。

 疑わない、ということが何に向けてなのかが整理できないと、私の言葉を誤解する。(したならしたで、それだってシナリオだし最善なのだが) 

 具体的な人や情報を疑うな、ではなく明らかな間違いや詐欺は避けたり相手にしないにしても、その事件自体はあなたの人生を彩る一要素として最善であることを疑うな、ということ。

 説明のために、ずいぶん言葉を使いすぎた。くどいところは許してほしい。でもそうまでして伝えたかった、ということである。



 正しくものを見るぞ、という目標を立てて、焦って頑張らなくていい。その時々を見たいように見、自分に自信を持ち堂々としていたら、勝手に認識の方で進展してくれる。

 どうせ、見たいようにしか見ないのだ。時が来たら、どうやってもある視点にシフトするのだ。だから、シナリオにお任せで、好きなようにものを見ようよ。

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