ありのままがいい、って本当?
今回のメッセージも、どちらかというと軽く受け流していただきたいつぶやき集である。まぁ、重く受け止めないで。
世界は、バランスである。ひとつが肥大したら、それを抑止するために別のものが生じる仕組みになっている。それは避けられない運命であり、どちらの役割にもいい悪いはない。
今からお伝えする言葉も、バランスを取り中立を保つための使者だと思っていただきたい。
ひと昔前に流行った言葉で、『ありのままで』というのがある。
「アナと雪の女王」というディズニー映画の人気も手伝って、この言葉が好んで使われるようになった。
スピリチュアル関連の情報でも、皆こぞって「ありのままがいい!」というメッセージを発信している。確かにこの言葉で楽になり、救われた人も多いだろう。それは大いに結構なことである。
でも、このことをお忘れではないだろうか。
●ある事柄を言葉にしてしまうと、その言葉を必要とする世界の半分を喜ばせるが、結果としてもう半分を不快にする。
これはもう、この二元性世界に生きている限りまとわりついてくる宿命。
これが、この世界でいう「バランス」というものの性質を端的に言い表している。
何かひとつが肥大すると、その偏りを是正するために対極のものが生まれる。それは、その「ひとつのもの」がどんなに正しくても、良いものでもダメなのだ。
内容に関係ないのだ。あるものが真実だから、世界全体を席巻するということはない。(一定期間そのようになったと観察される時間はあるだろうが、短命な上長い宇宙歴から見れば一瞬のこと)
同じように、せっかく世界でメジャーになりかけているあるひとつを攻撃する何かは、ただの悪者ではない。すべてバランスを取るシナリオである。
今回、筆者はあえてその「反対側の使者」となってみよう。皆が手放しで喜ぶ「ありのあままでいい」ということに、異を唱えてみよう。
これは、こちらが正しいということでは全くない。ただ、「ありのままでいい」 というメッセージは、それを必要とする人には福音だが、 逆にいい気分になれなかったり落ち込んだりする者も出てくるからである。
その、残り半数を配慮するメッセージは世に少ない。だから今回、私がその役割を担おう。
さて。
神(神意識)は、なぜこの世界をあえて作った?
この二元性世界であちら側のことを論じるのは無謀だが、でもそう言ってしまってはつまらないので、無理を承知で言ってみることにする。
一応、神意識というのは、(こちらから見て)完全無欠の存在である、ということになっているはず……ってことはですよ。
●もうそれ以上、何かをする必要のない状態
……なのである。だって、もう完成されているのだから。
だから、その完全なる存在が、ピクリとでも「何かをしようと動いた」場合、神意識は「完全性を捨てる」という話になる。何かをする余地をあえて作る、ということであるから。
●神は、ありのままでよくない! と思ったのだ。
ありのあままで満足できない! 何かしたい!
そして何かを達成したい!
そう思った。
神 がありのままでよくて、満足という状態なんだったら、この宇宙には一 (いち)完全な存在がただ「在り続ける」だけのはず……だった。
でも、人間的に言えば「何かしたい!」という思いが何故か起こった。
人はその思いのことを、情熱と呼ぶ。そしてその「何故か」を、人間側がゲームキャラの分際で追及することは、徒労である。
そんなことでエネルギーを消耗するより、遊園地(この世)で楽しく遊べ、って話である。「何かしたい!」を言い換えると、「ずっとこのままなんてよくない!」ということ。
ゆえに、ある視点から切り取れば——
●ありのままでよくない。
そうも言えるのだ。
もちろん、ありのままという言葉をどう定義するか、という問題もある。
ほとんどの人は、今現在の自分の客観的状態(経済状態・健康状態・能力実力・容姿・精神状態など)と考えている。自分が自分をどう思っていて、その上で、ここを何とかしたい! ここを変えたい! そう思って何かをすることも含めて『ありのあまま』と、広範囲に(または全てと)捉えることができる人は少ない。
スピリチュアル発信者たちもやたら「ありのまま」を連発してるけど、そんな簡単なもんじゃないんですよ。
だから、ありのままでと言う時、時として「ありのままでいいんだから何もしなくていい」という屁理屈になる。だからある人種が必死に自分を良くしようと色々な努力をする時、こういうことを言ってしまう。
●あなた、もっとありのままの自分に誇りを持ちなさいよ。
そんなに自分に色々付加価値をつけようとするなんて、心の奥底に『恐れ』があるからじゃない? このままの自分では良くないんだ、っていう。
もっと、楽になったほうがいいんじゃない?
ほっとけ。
やりたいからやってるんだ。何が悪い? 何で、いちいち他人に自分のやっていることが恐れがどうだ、と分析されなきゃいけない?
例えば、『喜びやワクワクにフォーカスしなさい』というメッセージがあったら、喜んで「その通りです! 素敵なメッセージですね」と受け止められる人は全員ではない。
一定数、「今やりたいことがない・自分のワクワクが何か分からない」という人がいて、彼らには「お前は十分でないんだよ」という評価としてとらえられる。嫌味にも聞こえる。
それと同じことなのだ。
だから、「ありのままでいい、って皆言うけど、私はありのままの自分が好きになれない」という人がいたら、私はその人に「大丈夫。いつか好きになれるから。焦らないで、。今は分からなくても、きっと腑に落ちるから。それまで、一緒に頑張っていこうね!」なんて言わない。
変にスピリチュアル的に筋を通さなくてもいいんじゃない? 私なら、きっとこう言うだろう。
『そうだね。
無理に、ありのままの自分なんて好きにならなくていいよ。
あなたが思う「ありのままの自分」が嫌だから、何とかしたいんだよね?
じゃ、どう頑張ったららあなたの気に入る自分になるのか、それを一緒に考えてみようか。そのうち、あなたが思う「ありのままの自分」の内容が変わることもあるかもしれないしね』
だって、しょうがないじゃない!(和田アキ子風に)
本人が「自分がキライ」って言うんだから。
いきなし、「ありのままでいい」なんて正論(そんなものはないのだが)をぶつけても意味ないでしょ?
あくまでも、相手がどう思っているか、そしてどうしたいかを否定せず、かえって協力しようか、くらいの姿勢でいいんじゃない?
そのプロセスの中で、本人が学ぶことだ。本人が気付くかどうかだ。このままでいいのか、それともこのやり方ではダメだと認めるのか、は。
他人が手とり足とり「正解」を伝えても、それはその人の成果にはならない。
「ありのままでいい」 というメッセージが異常繁殖しすぎたので、「ありのままでよくない、でもいい」というお話をしてみた。
これはもちろん、一般に受け入れられなくていい。皆のために書いたのではない。
ありのままでいいと思えない。でも、周りは皆そう言っている。だから、自分が間違っているんだ。私がダメなんだ……そう苦しむ方のためなのだ。
ありのあままの自分を受け入れられない、という人へ。
それですら、いいんだよということを伝えたい。
自分を好きになれなくてもいいんだよ、ということ。
だから、どうやったら好きになれるか一緒に考えましょう。
そうしているうちに、逆にありのままでいいということに気付けるかもだし、ね。
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