辻褄合わせは適当で

 出勤中街を歩いていて、ふとすれ違った女性。

 今にも泣きそうな深刻な顔で、歩き去っていく。

 ……何かあったのかな。一日も早く、あの人に笑顔が戻りますように!

 素直にそう願えたあなたは、ちょっと気を良くして職場へと向かう。


 

●実はその女性、職業が舞台女優で、稽古前にちょっと悲しい表情を作る練習をしていただけだった!



 映画館。感動的で、自然と涙があふれてきた。

 ふと、席をひとつ空けて隣の女性を見ると、やはり涙が頬を伝っている。

 ああ、みんな感動してるんだなぁ。

 そう思ったあなたは、何だか観客全体との一体感のようなものを感じる。



●でもその女性、睡眠不足がたたり上映中眠ってしまい、今目覚めて大きなあくびをしたら自然と涙が出てきただけ! 映画の内容はあまり覚えていない。



 街の往来で目の覚めるような美女と、どう見ても釣り合わないオッサンが堂々とキスをしている。あなたは自然な反応をする前に、必死で思いとどまる。

 ……いや待てよ。

 これはもしかして、普段あり得ない光景をわざわざ演出して、それを見る通りすがりの人の反応を見て楽しむTVの「ドッキリ」なんじゃないだろうか? もしかしたら、そのヘンのどっかにカメラが仕込まれていて、オレの反応をあとで笑うんじゃないだろうな? フン、そんな手に乗ってやるものか!

 で、一生懸命「気になんかしていない風」をつくろい、至って自然な風に通り過ぎる。



●カメラなんか、どこにもないってば!



 さて、筆者が本書で折に触れて言ってきたことのひとつに、この重要なメッセージがある。


 

『人は正しくモノを見れません』



 結局、主観でしか見れないと。

 正味の「事実」や「真実」など、認識しようがない、と。

 ただ、その一方でこうも言ってきた。



『それでいいのだ』



 そもそもこの世界には、完全なる存在が不完全を、変化を、感情ドラマを味わいに来たので、「正しくモノを見れない」ことはこの世ゲームのプレイヤーである神意識側は百も承知。織り込み済み。

 だから、正しくモノを見れないことを「マイナス要素」「問題」として見るのではなく、それを逆手にとって楽しく生きたらいいのだ。

 幸せになる方向で、「人間キャラとしての独特の視点」を楽しんだらいい。思考やエゴと一緒で、無くす方向ではなくあえて「ツールとして使いこなす」方向で生きればいい。



 有名な三谷幸喜の映画で、『ラヂオの時間』というのがある。

 これ、なかなか面白い脚本である。

 ラジオドラマの出演者たちが、セリフや設定で自分の気に入らない部分を変えろ、とわがまま放題に要求してくる。でないとやらない、とまで言い出す彼らに、制作側は譲歩せざるを得ず、しぶしぶ脚本を書き換える。

 その結果、どこかを変えるたびにその無理が他の箇所に影響を与え、それをまたつくろわなければならなくなる。で、そうれはもうメチャクチャなストーリーになる。

 


・台本では熱海のパチンコ屋ではたらくリツコ

 → ニューヨークの弁護士メアリー=ジェーン


・漁師の虎造

 → パイロットのドナルド=マクドナルド


・飛行機が行方不明

 → ロケットに



 放送現場は修羅場と化すが、ドタバタとそれでもなお辻褄を頑張って合わせていくうちに、次第に番組の完成にむけて、関係者一同の気持ちがひとつになっていく。

 で、無事放送終了までたどり着くと、出演者全員がすがすがしい笑顔をみせる。

 だいたいはそんな内容なのだが、成り行きでできた今回の荒唐無稽なラジオドラマを結果好きになった制作側は、続編を作ろうか、と言い出す。もともと、これは一話完結の話だった。



「続編作る話、聞きました?」

「もういいよ……」

「作家先生、やる気ですよ」

「大体あんなハッピー・エンディングの後、どうやって続けんだ」

「ハインリッヒがメリー・ジェーンを連れ戻しに来るとか」

「馬鹿言え。あいつはミシガン湖に車ごと突っ込んじゃったよ」



●あれは水陸両用車ってことにしよう。

 陸上専用車とは言ってなかった。

(だからハインリッヒは生きていることにできる)



 なんかもう、ムチャクチャ。

 辻褄合わせ、ここに極まれり、ってカンジ。

 ここまでこじつけられたら、逆に清々しささえ感じる。



 私たちには倫理的思考や常識という、経験から得た蓄積データがある。それに基づいて、できるだけそれらに沿って自然なように、言動を検閲・校正する。

 そして、問題ないという最終的判断を経て、人は言葉を口に出し、行動を起こす。

 時々、これらの検閲機関を通さず出力することもあり、これが「反射的」なものであったり、あるいは「感情エネルギーに押されて出たもの」である。

 もちろん、ケースによっては理性による「理想的な選択、行動」 がベストなこともあろう。

 でも、やっぱり「面白い」のは、それらを越えた感情エネルギー(~したい、これが楽しいという)に突き動かされた選択である。

 この映画では、一見むちゃくちゃな、個々人が勝手なエゴをぶつけ合ったに過ぎない行動の絡み合いが、結果不思議にも素敵なものを生み出すことになっている。



 私たちは、日常目にしたり聞いたり感じたりするこの世界の現象を、自分なりの理性の精一杯を使って理解し整理し、納得しようとしている。時には、無理くりの力技さえ使って。

 でも、そんなに自分の内側の「定規」に忠実に、この世界を理解しようとしなくていいんじゃない? 根拠の裏を取るとか、これは現実的におかしくないかとかいうことはちょっと置いといてですね——



●辻褄合わせはまぁ適当で。

 それよりも、あなたの見たいように世界を見ては?

 あなたの気に入るように、ストーリー付けをしたら?



 こんなんでいいのか、おかしくないかという不安にはちょっとヒマを出して。

 ラヂオの時間の登場人物たちのように、わがままを言ってみましょう。

 事実なんて(あなたの生活に支障がない限り)どうだっていいのです。

 冒頭の話に戻れば、あなたがすれ違った女性が実は役者だろうが、あなたは悲しい運命に見舞われた女性を思いやれたのです!

 映画館の隣の席の人の涙が、感動によるものではないあくびによる涙だろうが、あなたは確かに映画館で場の一体感を感じたのです。感動を共有できたのです!

 確率は低いですが確かに、キスをする格差の激しい異色カップルは、ドッキリ撮影のための「釣り」かもしれないですよね!

 そう思ってる方が、何か楽しいですよね。事実が分かるより、幸せですよね。

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