スピリチュアルは宗教を笑えない

 宗教に限界を感じてその後スピリチュアルに来た、という方は少なからずいる。

 筆者自身もそうだったので、今日は自戒の意味も込めて書いてみる。これは、スピリチュアル関係者(ハマっている人、あるいはそれでメシ食っている人)皆への問いかけである。



●スピリチュアルのほうが、宗教より上(マシ)だという意識はありませんか?



 もちろん、自覚できるレベルでそんなことを考えて生きている人はいないだろう。

 これは、何となく(無意識レベル)の認識の問題である。日頃考えないけど、その影に光を当てたらホンネでどう考えているか、という。

 宗教は、確かに問題てんこ盛りだ。

 大きな問題のまずひとつは、はっきりとした「組織運営」であること。これが、宗教組織が大きくなればなるほど人間臭くなっていく宿命的要素である。

 どの宗教も、私が思うに最初は「動機やそこに懸ける思いは純粋だった」だろう。でも、賛同者が増え、大きく人を巻き込み、土地建物と教団の財産が増えていくとどうなるか?

 教祖一人の手に余る事態になる。韓流歴史モノドラマに登場する『王様』を連想していただければいいが、家臣(特に重臣)に対してたいがい頭が上がらない。威厳をもって何か決断しようとしても、「お考え直しくださいませ~王様~!」と返される場面を、ドラマの中では何度も見た。

 新興宗教と聞いてパッと名前が浮かぶような団体は、まず例外なくその状態である。もはや船が大きくなりすぎ、舵が取れない。いや、舵が取れたとしても、船体が大きすぎ実際の動きに反映するのに時間がかかり過ぎる。

 そしてようやく動いた、と思う時には、事態がすでに変化している。で、対応が後手後手に回る。

 そうやって、どんなに大きく育った組織でも「組織である」という時点で、すでに滅びの唄は始まっている。そしてそれは、刃物を研いで、本格的に自分の出番が来るのを待ち構えている。

 例えば、「奇跡のコース」というスピリチュアルは、その辺の危険性を見越していて、勉強会などの学習の場のセッティングを除き、組織化することをあえて避ける対応を取っている。



 そして宗教のもつもうひとつの問題点は、それぞれに『自分たちが正しい』と思っていること。真理というものは宇宙にひとつで、そしてそれはまさしく自分たちの信じているものである、と。

 キリスト教は、無数にある宗教の内のひとつで、ひとつの教えに過ぎない——そう思っているクリスチャンはほぼいない。いたら、ちょっと不思議なくらい。

 例外なく、キリストこそ救い主で、父子聖霊の神を信じ受け入れない者は、かわいそうだが天国に入れない(地獄に行く)とマジで思っている。洗礼というものを受けないと、人の罪(原罪と呼ばれる)は取れないと思っている。

 だから、『勧誘』ということが起こる。カタい言葉で言うと「伝道」である。

 幻想世界においてこれほどのお節介というか、迷惑行為はない。何が迷惑かって、やっている方は相手が迷惑だなんて「微塵も」考えないところにある。

 私もやってた側だから体験から言えるが、ちょっとでも相手の迷惑を考えたらできない。相手はいやがるけど、それはこちらの教えの真実を知らないからだ。誤った先入観があるから、正味の価値を捉えられないハンデがあるので、可哀想なのだ。

 だから、表面的な現象に惑わされてはいけない。回りまわって、これは相手のためなんだ——そう思い込むからこそ、勧誘ができるのである。

 場合によっては、ウソさえつける場合もある。たとえば宗教ということを伏せ、文化教室とかサークルの勧誘だとか。自己啓発セミナーだと言って、実は教義内容のワークショップだなんてことはざら。

 でもそこに罪悪感が湧かないのは、最終的に相手のためだと思っているから。それを支えているのが、『自分は正しい』という最後の砦である。



 そういう宗教というものに疲れ果て辟易して、スピリチュアルに流れ着いた人も少なくないだろう。筆者も、その一人である。

 で、多くの人が思っているだろう。ああ、スピリチュアルに来てよかった。あのままだったら、一体どうなっていたことか!

 その「マシ」と言える要素は何か整理してみよう。


 

①明確に組織化されてはいないものがほとんど。



 確かに、スピリチュアル発信者や支持者をつなぐ講演会やイベントはあり、個人的な有志が運営・主催するようなことはあるが、あくまでもそれをつなぐ線は人の厚意であり、絆。決して、純粋な組織の利害ではない。

 もちろん、有名になったスピリチュアルメッセンジャーに出版社やメディアなどが後ろ盾に付く場合があり、そこにはやはり人間臭いドラマが裏で起こる。組織が噛むと、スピリチュアルなんて分野はまぁろくなことにならない。

 だからキリストは、徹底して権威に媚びなかった。言いたいことが言えなくなるくらいなら協力なんていらねぇ、って心意気だった。そんな調子だから彼は扱いにくいヤツ、自分一人で生きてると思ってんのかと周囲から反感を買い、最後には殺されまでした。

 まぁ、宗教ではない分、厳密に信者かどうかなんていう枠組みもなし。定期献金もなし。講演会には行きたければ行くし、本は買いたければ買う。あくまでも、利用者側に自由がある。そこに強制はない。



②特定の神を信ぜよ、ということは言わない。



 あくまでも、スピリチュアルな生き方(発想・意識の在り方)についてオススメをする程度で、何か特定の絶対神を信じなさい、ということはない。むしろ、ワンネスという概念から、あなたの正体は神のようなものだ、とさえ言う。

 筆者も、本書では人を「宇宙の主人公」だと言っている。神を信ぜよどころか 『アンタが神よ』と言っている。これには、宗教もビックリであろう。

 神を信じなさい。さもないとあなたは救われませんよ。罪は消えませんよ——それと真逆の「アンタ神だから、最初から救われていますよ。あとは好きにすればいいですよ」って、どんだけ楽やねん! てカンジじゃないですか?

 確かに、ハイヤーセルフだとか高位のアセンディド・マスター、天使など人間より上位な存在は登場はするが、宗教の神のように「あがめる」対象ではないところも指摘しておかねばなるまい。



 でも、ここからが本題である。

 本当に、そう?

 脱宗教を果たしてスピリチュアルにやってきて、そこは本当にパラダイス?

 実は、『似た世界』なんじゃないですか?

 スピリチュアルったっていろいろある。全体を見渡せば、宗教と相似形な部分はいっぱい見いだせる。社会に嫌気がさしてホームレスになっても、ホームレス社会自体が上下関係・縄張り意識の染みついた『この世の縮図がここにも!?』って感じなことにも似ている。



●指摘その①


 特定の神がスピリチュアルの教えそれ自体、あるいはメッセンジャー個人に変わっただけ。



 神を信ぜよ、というのではないという部分で、ごまかされている。結局、ある覚者(メッセンジャー)を神のようにあがめているような人も出る。

 その人物の言うことを聞き漏らすまいと、教えの内容を腑に落とそうと躍起である。観察していたら、これって教祖と信者の関係と大して変わらん、と思えるスピリチュアルはある。



●指摘その②


 結局、自分が他より正しいと思っている部分は宗教とあまり変わらない。



 これは責めるのはちと酷かもしれない。

 だって、正しいと確信できないと、人になんか薦められんだろうから。

 間違っている、なんて思いながら人に教えるなんて、良心があったらできない。講演会をしたり本を出したり、正しいと思えないとそんな大それたことできない。

 どのスピリチュアルメッセンジャーも、『全ては自由・起こることが起こり中立・同価値』とか言いながら、懐の深いポーズは取りながらもホンネでは「でも自分が主張することが正しい。これをやらんと実はダメなんだけどね」と思っていたりする。

 で、「この親にしてこの子あり」みたいな感じで、有名メッセンジャーに群がる親衛隊たちも、宗教信者と変わらない。

 当人たちは、こう言う私に腹を立てるか、かわいそうなヤツ、と憐みの目で見るかのどちらかだろうから、分かってもらおうなんてサラサラ思わない。

 たまに、自分が心酔しているスピリチュアルメッセンジャーに批判的な人物が現れると、もうそれこそ必死に戦おうとする人が出てくる。

 相手を言いくるめ、自分(そのメッセンジャー)が正しい、という方向に持っていこうとする。それはさながら、たまたま信者たちのたまり場に紛れ込んでしまった人が、四方八方から責め立てられるのと同じ。劣勢な阪神タイガースの応援スタンドに一人紛れ込んだ巨人ファンのようなもの。

 で、あなたがそう思う(批判的になる)のはあなたの中にあるエゴが見せているとか、先入観が邪魔をしているとか、色々もっともな理由を付けて「ここの正しさは落ち着けば分かる」と言う。



 恋は盲目、という言葉がある。

 好きになっちゃうと、「あばたもエクボ」の世界がある。落ち着いて見れば大したことない部分でも、素敵に見える。

 皆さんも経験ありませんか? この人たちは 何でこんなに騒げるんだろう、この程度のことでなぜそんなに大仰に感動できるんだろう? 他人の熱狂がそんな風に見える時が。

 もちろん、それはそれでよい。皆、好きにやっていいのだから。それぞれがそれぞれのテリトリーで他を侵略せず、気持ちよく棲み分けができているならいい。

 ただ、部外者に対して(共感しない人に対して)自分たちの正しさを盾に、ボコるな。そうっとしておけ。

 何かが広まるという時には、それは他の間違いが明らかになってその正しさが証明される、というやり方ではない。「それ面白そう」「それやりたい」という風に、人が楽しそうに活動しているのを見て、惹かれて集まるのだ。それ以外の建設的な人の集まり方はない。

 批判分子にカチンと来て答弁しようとか、白黒つけて問題を潰そう、とかいう解決の仕方ではなく、そんなものは放っておいて「ただ楽しく生きてればいいじゃん」。それで来る人は来るし、来ない人は来ないんだから。

 人が大きく集まり過ぎたスピリチュアル発信者なら、「読むファンの気持ち」なるものを慮って批判に動じないようにフォローの記事を書いたりする。それは私からすれば「覚者、世間ゲームに巻き込まれるの図」である。本来、悟りを得たなら気にしなくていい話であるが、それを気にさせる魔力がこの社会システムにはある。

 そう考えたら、覚醒なんて大したことないな!

 もちろん、私がこう書くのは「私だったらそうはならない」という傲慢さから言っているのではない。私だって有名になって組織のお世話になりだしたら、同じようになる可能性はある。今の立場だから言えるのである。

 筆者がこの調子だと、世には儲け話だけの勇気のない会社がほとんどだから、私に声をかけてくる物好きはいないだろうと推察する。なのでせめて、家計の足しくらいにはなりますように! と人間臭く思うばかりである。



●指摘その③


 結局、ここでも優劣やランキングがある。



 そういうものに疲れて、スピリチュアルというオアシスに来たはずなのに……

 これが腑に落ちるとか落ちないとか。瞑想がうまくいくとかいかないとか。浄化できたとかできてないとか。

 果ては、覚醒したとかしてないとか。結局、何かを目指すんかい!

 執着を捨てろ、という悟り系の分野なのに皆執着バリバリ。一体何やってんの。

 


 もうね、スピリチュアルであっても逃げられないのよ。ある教えを正しいと考えた瞬間に、もう終わってるのよ。その基準で他を測りだすから。 

 この幻想世界では、何かの良し悪しの基準を作ってしまった瞬間に、本来はひとつでしかない存在を二分して評価することになる。こうできるのが良くて、こうできてないのが『もっとがんばりましょう』のハンコをもらう。 

 で、同じものに共感したサークルではその基準での競争が始まる。で、たまに一見さんが顔を出すと、何かの捕食動物の巣に引っかかった虫のように、バリバリと食べられる。つまり、あらゆる「あちらが正しい前提での言葉」をシャワーのように浴びせられる。

「あなたはちゃんと考えた方がいい」「ウチが正しい」という風に結局もっていく。

 熱心にスピリチュアルをやっている人は、たいがい自分のスタンスを疑わない。自分を正しいとして相手をそれに近くしよう、という発想以外湧かない。

 ところで筆者は、豊かさというものをこう定義している。



●あらゆる可能性をカバーできること。

 ひとつでも多くの視点・可能性に思い至れること。



 そういう観点で考えれば、自分が正しいとしか考えられない人は、貧しい。下手したら、皆の尊敬を集めている人物ですら貧しいかもしれない。

 筆者は確かに、今を時めいているスピリチュアル発信者ほど好人物ではないかもしれない。平凡で、大人物を思わせるオーラはないかもしれない。

 でも、ひとつのことは誇れる。それは、自分の主張は言いたいことを趣味で言っているだけで、決して真理ではないと言えてること。私は、私が真剣に言っていることは「マイワールド」のお話に過ぎず、参考にしたい、あるいは取り入れたいと思う人だけ耳を傾けてくれたらいい。常にそう言っている。



 ここで、爆弾発言。

 あなたが疑いもせず、人にすすめまくっている教え。

 批判されたら、言い返さずにはおれないほど大好きなその教え。



まとを外している可能性もあるかもよ!?



 それを思いつける人こそ、自由だ。

 余裕のある心。ブレーキで言う、遊びの部分がしっかりある状態。

 だから、いっぺん頭冷やして考えてみ? また別の気付きがあるかもよ。 

 逆に、そこまで考えた上でなおそれが好きなら、本物だ。

 私、考えたさ!

 これだって、私がマジはまっているからいいと思うだけで、世界中の人が従った方がいいほどの真理かどうなのかな……って。謙虚に考えたさ。

 でも、でも——



『これが好きなんだよおおおおおお!』



 生まれてから社会や親や教師の言うことを全部素直に聞いて失敗しない人生は、「失敗していない」という部分では結構だが、やっぱり浅い。

 人の言うことなど聞かず、やりたいようにやって、やっぱりそれはそれでひどい目にも遭った人は……そこで「次はこうしよう」と学べることで、お仕着せでなく「自分の思いで」選べるように成長する。

 失敗を味わってこそ、逆を知ってこそ、別の選択が強力になる。



●だから、自分を正しいと思い批判を一切嫌う人は弱い。

 逆を認め、それでも自分はこれが好きだと改めて選べる人が強い。



 だから、スピリチュアル実践者は「ウチらは宗教よりマシ」という優越感を捨てて、そこにあぐらをかくのをやめて。人間のすることは、何のかの言っても五十歩百歩であることを認め、そこにくつろぐってのはどう?

 その上で、じゃあ次はどうしたいかを決める。それだけでいいじゃないさ。

 何度言っても分かりずらいみたいだかから、もう一度言うよ。



●この世界に、決まった真理などない。



 ないんだからさ。もっと気楽に行こうよ。 

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