王子と乞食

【ストーリー】

 

 宮廷の中しか知らない王子エドワードは、ふとした遊び心から自分とうり二つの顔をした乞食の子トムと服を交換したために宮廷から追い払われてしまい、乞食の子としてロンドンの街をさ迷い歩くことになってしまう。一方乞食は、王子として宮殿に残る羽目に……

 エドワードは、王子に憧れてついには気が狂ってしまった哀れな乞食の子としか見てくれない下町の人々の中にもまれて、ロンドンの庶民たちの苦しみを身を持って実感する。

 一方のトムは、これまでの境遇からは想像を絶するような豊かな暮らしを体験する。確かに上流社会にある堅苦しくバカバカしいしきたりや融通の利かない家臣たちにはうんざりするが、かといってそれは王子が乞食を体験するほどのハードさはなく、そのままとどまっていいと思えるものであった。そのまま王子に成りすます罪悪感を覚えつつも、本物ではないと今さら言い出せず、月日が過ぎていく。

 しかし、トムの中にも心境の変化が生まれた。王子として街に出た際、実の母親に対しても「お前など知らない」という態度を取らねばならなかったことだ。ぜいたくな暮らしに、こうまでしてしがみつく価値があるのか? 親を裏切ってまで?

 こうして、王子と乞食、二人をめぐる運命はまた、大きく動いていく——。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


  

 大人の皆さんは、子ども時代にこの『王子と乞食』というお話を読んだり聞いたりしたことがあるかもしれない。

『トム・ソーヤの冒険』を書いたマーク・トウェインによる児童文学。

 上記のストーリーを読んで、「あれっ?」 と思った方もいるかもしれない。

 通常日本で目に触れる、小さな子供向けの文章ではこうだ。

 王子は贅沢や上流階級の暮らしに嫌気が差し、乞食は貧乏などもうたくさんで、おいしいものをたらふく食べ、贅沢な暮らしをすることを夢見ている。そんな二人が出会い、互いの立場を交換する。それで、お互いに「結局、どの立場でも問題はあり、満たされない部分というものはどこかで出てくる」ということを学び、成長して元に戻る……だいたい、そんな筋書きではないだろうか。



 しかし原文では、王子と乞食に互いが変わりたい、という変身願望は描かれていない。もちろん、二人ともある程度は反対の立場にあこがれは持っていた。でもそれは実行に移すほどの思いではなかった。

 例えるなら、あるものが欲しくて欲しくてでもお金がなくて、盗んででも得たいと想像するほどであるが、でもさすがに現実に実行はしない、というのに似ている。

 入れ替わるつもりはなく、ただ顔がお互いそっくりなので、遊び半分で服を交換しただけなのだ。(そして、その後すぐ元に戻るつもりにしていた)

 しかしそこを家臣に目撃され、当然王子の恰好をしている乞食の方が王子と認識され、王子は城から叩き出される。要するに、立場の交換は合意の上・意図的というよりも一種の『事故』だったのだ。

 そして注目なのは、王子も乞食も同程度にお互いの立場を満喫して、「そろそろいっか」ってな感じで元の立場に戻ったのではなく、王子化した乞食の方は、決定的なきっかけが生じなければずっと王子でいたかもしれないという部分。ジュブナイル(少年少女向けのお話)として、教育的配慮という水で薄められた文章に触れていただけの私は、改めて「こんな深いお話だったんだ!」と思った。



 まぁ、今回のメッセージに必要なのは、一般的なお話のイメージのほうでいい。(笑)

 スピリチュアルの世界において、多くの「悟ってない(と思っている)人」は、悟りたいと願っている。目覚め、という言葉でもいいし、覚醒という言葉でもいい。

 乞食が王子にあこがれるように、王子が乞食に「自由」という名の期待を抱くように、皆自分に足りないと思っているもの(悟り)を求め、悟った人(覚醒者)をうらやましく思ったり、過度に自分より上に見たり、そういう人種に積極的に関わることであわよくば自分も……と狙う。(もちろん無意識下であり、普段そんなことを自覚しているわけではない)



 変身願望は分からなくもないが、私としてはオススメできない。

 結局、「王子と乞食」の一般的なお話の教訓と同じで——



●覚醒者も非覚醒者も、どっちもどっちである。



 スピリチュアルの世界だからって、ここそんなに「清い」ですか?

 一般社会と比べ、争いも少なく、皆精神レベル的に『立派』ですか?

 さっすがぁ、スピリチュアルやってるだけあるわぁ、なんて周囲から尊敬されるスピリチュアル実践者って、全体の何%くらいいらっしゃるものなんでしょうねぇ?

 私は、ハッキリ同じだと思う。どんぐりの背比べ。

 だから、スピリチュアルやることが明らかな「メリット」だと思って、頑張らないほうがいいよ。頑張って広めないほうがいいよ。

 メリットは、髪にしっとりのあのメリット(シャンプーとリンス)だけでいい。



 覚醒者っていう人種だって、どうよ。

 色んなケース見ても、本当にゴタゴタあるべ?

 人と話していて感じる、悟りに関する世の誤解は、コレ。



●悟ると、人生楽になる。

 悟ると、幸せになる。

 悟ると、人生(人間関係)うまくいく。



 あのね、間違ってもコレ、ないから。(笑)

 これもね、言い方の問題なんですよ。どの視点から「幸せ」「楽」を捉えるかなんですよ。では以下、幸せをどう定義するかケースごとで考えてみよう。



①『楽=苦しいこと、しんどいことが激減する』


 この定義でいくと、覚醒者になったからといって、苦しいことやしんどいことが消えたり、むっちゃ減ったりとかしない。

 悟ろうが悟るまいが、苦しみやしんどさの総体量は皆同じ(厳密には同じではないが、大きな視点からは似たり寄ったり)。



②『幸せ=人生においてあなたの望むこと、心地よく感じることが起こる』


 この定義でも、覚醒者というのになったからといって、幸せにはならない。

 幸せとはとらえ方がすべてであって、「(誰にとっても)幸せ」という絶対的な現象がこの世にあるわけではない。そういう意味では、覚者はその「視点」を操作することで一般人よりは「幸せ」を多く見つけられるように思えるが、これには個人差という問題も絡んでくる。

 すなわち、個性の問題である。例えば同じ銃を持っていても、その人の運動神経や身体能力により、その銃の性能を引き出し効果的に使えるかどうかが変わってくる。それと同じで、覚醒という名の同じ銃を持っていても、土台のその人物のメンタルが強いか弱いかで、「視点の変化を使っても、心が負荷に耐えるその人のキャパを越えてしまって、結果的にいやな気分になる」ということも起きる。

 あと、覚醒者であるがゆえに人より物事を色々な角度で捉える卓越した能力により、凡人には思い至らない余計な部分も見えてしまい、その面では普通の人よりも不幸になりやすいという笑えないリスクもしょっている。



③『悟る=人生においてもののとらえ方が平均より卓越して、すべてにうまく対応できるようになる能力が備わる=人間関係もお手の物。そのことではもう悩んだり、苦しんだりしなくなる』


 この定義では、覚醒者になったからといって、人間関係のプロにはならない。

 ここで一発、ゴーマンかましてよかですか?

(小林よしのり風に)



●スピリチュアル実践者に、人間関係下手なの少なくない。

 覚醒者と言われる人でも、対人能力それほど高くないですよ。



 これ、マジで。

 常識的な礼儀を欠くのもいるから。謙虚に言うなら、私も含めて。

 だから、皆さんから「悟りたい」って言われるたびに、妙な気分になる。

 ……あっ! そうだった。私脱宣言したんだった! テヘッ(志田未来風に) 

 覚醒したからって、その人はその人のまま。ただ、「何があっても大丈夫」と分かるだけ。

 何があっても大丈夫、と思っていると人と、場合によっては大丈夫じゃない、とテンパってる人が同じ空間に同居している。だから、そこに温度差が生まれる。覚者が超自然体にしていたら、まず人間関係うまくいかない。

 イエス・キリストがそのいい例である。あれは、覚者が(現象面で)不幸になる最高の好例。

 ある程度、郷に入らば郷ひろみ……じゃない、『郷に従え』という部分が必要になる。つまり、妥協が必要になる。この社会のスタンダードをある程度受け入れなければならない。

 しかし、時としてその妥協を使いすぎると、皆さんがよく目にする覚者にまつわるトラブル(特に金銭面・社会的立場面・ホンネとタテマエ面)に発展する。

 ゆえに、突き抜け悟った境地と、この二元性世界でゲーム的現実と折り合いをつけていく部分のバランスゲームを余儀なくされる。



●だから、悟ったら悟ったで苦労はするのだ。

 悟ったなりに、それはそれで色々あるのだ。

 それを承知でなお望むなら、もう止めません。



 そんな身もふたもない話で終わるのもビミョーなので。

 覚醒の、ちょっといいとこ見てみたい!?(笑)

 ここまででも触れてはいるが——

 


●視点操作能力。



 ここは、いいところかも。

 カメレオンのように、状況に応じて視点を変えれる。

 多くの人は、固定された視点を持っているので、ある定着した見方から逃げられない。でも、(悟りというのを皆がどういう基準で言っているのかは知らないが)どんな状況でも、そこに魂が落ち着ける「視点」を探り当てられる。

 もちろん、この能力にはアロンアルファのように速乾性(即効性)はない。皆さんと同じように、起きたことによってはショックだし、悲しくも辛くも感じる。

 でも、時間性とともにその視点にシフトしていく。

 


 だから、悟ったら幸せの総量が増えるんではなく(つまりいいことが沢山起きるようになるのではなく)、ものの見方を変えることで評価をひっくり返すだけである。オセロではないが、視点を変えることで黒と思っているものを白に変えるだけ。

 そもそも対象の評価が変わるだけの話なのに、それが外野には「幸せが増える」ように錯覚されて見えているようである。

 悟ったら苦しみや悲しみそのものから解放されるんではなく、受け止め方が変わるだけ。だから、ものの見方以外、覚者など普通人と同じ。

 分野によっては、普通人にも劣る。別段、スーパーマンではない。

 


 でも、すべてはタイミング。

 覚醒は起こるべくして起こり、起こらない時には起こらない。

 結局、エゴの自由にはならないんだからさ。

 一休さんみたいにこう言おう。



●あわてない、あわてない。

 ひと休み、ひと休み。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る