私はあなたに何もしない

 私が好んで使うたとえ話のネタに、芥川龍之介の短編小説 『杜子春』 がある。

 昔々、杜子春はお金も甲斐性もなく、街角に立ってボケーッとしておりました。

 そこを通りかかった仙人が、杜子春に尋ねました。

「なんでお前は、ここでずっと立っているのだ?」

「お金も住むところもなく、どうしたものかと考えているのです」

「では、ワシが言った場所の土を掘ってみるがいい。お金がいっぱい埋まってるから」

 実際その通りになったので、杜子春は金持ちになり、友達もたくさん寄ってきた。



 でも、三年くらい贅沢をしたらお金も尽きて、杜子春はまた街角でボーッと立っていました。

 そこへまた、あの仙人が通りかかりました。で、またどうしてここに立っているのか聞きました。それに対する杜子春の返答もまったく同じでした。

 にわか金持ちになり、また数年後にお金がなくなる過程まで、そっくり同じことを繰り返しました。(どうして、そのお金を元手に稼ぐ、増やすという発想が一度も出てこなかったのか、というのが面白いところだ)

 


 そんなことを何度か繰り返し、また街角に立っている杜子春に仙人が言う。

「今から言う場所を掘りなさい。そうすればお金がー」

 しかし。その時の杜子春の返答は、今までとは違ったものでした。

「いいえ。お金はもういいんです」

 杜子春は「仙人」になりたい、と言う。これはいったい、どのような変化か?

 彼は最初、お金がないのでお金さえ得られたら問題が解決すると考えた。でも、結局それでは何も変わらなかった。何回も同じことを繰り返して、やっとそのことに気付いた。

 気付いてやっと、現実を生んでいる「意識」のほうに注意が行くようになった。幸せ(この場合は魂の平安)を得るには、見た目の現実をいじるよりも自分の内面(意識)を変えるほうが早いと気付いた。

 だから、外面的豊かさの代表である「金持ち」になることよりも、内面的豊かさの代表選手である「仙人」、ひらたく言えば悟りを得たような人になることに関心を持つことができた。これは、逆手にとって話をすれば——



●杜子春が「お金欲しい」モードの時に、いくら彼に内面的豊かさの話をしてもムダだということ。



●逆に内面的豊かさへの気付きを得てのちは、どんな目のくらむお金でも、幻想の力で杜子春をだますことはできないということ。もう、昔の杜子春には戻ることができない。



 もちろん、私が情報発信で常日頃から「この世界にはあらゆる無限の可能性があっていい」と言っているので、もちろん「大した苦労や失敗を通過しなくても、悟ること、大きな気付きを得ること」はあってもいい。その可能性は、ゼロではない。

 でも、ゼロではないからと言って、まるで当たりにくい宝くじに人生を託すような姿勢は、オススメできない。そこは、地に足をつけたほうがよい。

 筆者は活動の一環として、『個人セッション』なるものをたまにやっている。

 常日頃、私が自分がどんな意図でやっているのか正直に言うので、意図的にある種の波動の人をふるいにかけ、寄せ付けないようにしているので、おかげさまでもうからない。(笑)文字通りたま~にしか依頼が来ない。

 たとえもうからなくても、私が避けたいお客の傾向とは——

 


●~してほしい、という波動。



 クレクレ波動。

 もちろんお金を払うので、その点でお金の値打ち分の代替品を受け取りたいと思うのは、人情的にはまぁ当たり前だ。でも、逆にこう突っ込んでみよう。



●お金さえ積めば、何とかなると思ってませんか?



 実は、カウンセリングやセラピー、個人セッションなどというものは幻想である。

 そのおかげでダメなひとがマシになったり、事態が改善されたりというのは『蜃気楼』である。実際に、映像的には我々の目にそのように映るが、立体映画でありホログラフ。全部、プレイヤー意識の一人芝居。

 筋書き通りに演劇が進行しているだけ。クライエントは、気付くべき時に気付き、気付くべきでない時には気付けない。ただそれだけ。

 誰かが何か頑張ったから、どこかで正しい選択をしたから、は関係ない。セッションをした人、カウンセリングした人のおかげで、何とかなりました!というのは絶対にない。



 とにかく、このすごい人に会えば、何とかしてもらえる。

 とにかく、問題と思える状況が緩和されることが、一番の願いであり、関心事。

 そういう、すがる思い。何とかしてくれ、という思い。

 それは、杜子春で言う「お金掘れ掘れ時代」と同じ。

 たとえ、「いやいや、私が欲しいのは内面的な安心や幸せであって、お金や問題の解決なんかではないですよ!」と言いたい人がいたとしても、それは物質的な「お金」や現実的な「問題解決」が、目に見えない精神的なものに置き換わったというだけで、「欲しい」「人から与えてもらって、何とかする」ということでは何ら同じで、言い訳できるものではない。



 私の個人セッションはどういう人向けかと言うと、まさにクレクレモードの杜子春のような人ではない。

 この人なら、私の問題を解決してくれるんじゃないか? そういう期待を前面に出して来る人に、私がしてあげられることはあまりない。そういう人は、私なんかのところよりカウンセラーやセラピストなど、人の悩み相談に乗り、問題解決を宣伝にうたっている人のところへ行けばよい。

 お金がないから欲しいモードの杜子春に、いくら仙人がモノより意識が大切だという話をしても、響かなかっただろう。だから仙人も、時でないと見抜いたので無駄なことをしなかった。

 杜子春が、ただお金を得るだけの事に嫌気がさしたのを察して、仙人はその段階にふさわしい対応をした。今なら、意味があると思ったからだ。

 私が対応するのは、時満ちた人。私がこれだけ商売っ気のないことを言っても、それでも申し込みたい人。そこまで来ればもう、宇宙のシナリオである。

 是非、いらっしゃい。



 私は、あなたの問題を解決なんかしない。

 私は、あなたの悩み相談などしない。

 そもそも、どんなお辛い状況を言われても、絶対に問題だなどと認めてあげない。

 具体的に「こうしなさい」「ああしなさい」というような言葉を一切言わない。(いや、ほんのちょっとは言うだろうが)

 違う視点から、それを見てはいかがか、と例を挙げて提示するだけ。もちろん、それを採用するしないはクライエントの自由。

 私は、いただいたお金分の働きをしよう、などと思ってやっていない。そんなことやる前に考えていても、やり始めたら何もかも吹き飛ぶから。

 言いたいように言うだけだし、やりたいようにやるだけ。そこに、何の罪悪感も後ろめたさもない。ただ、クライエントにこのひとつのことは絶対に保証する。



●私は、時間の最初から最後まで、あなたを神としか見ない。

 状況によらず見た目によらず、あなたが自らの力で立てると信じて向き合う。



 ここまで言っておいてなお、私の稼業が成り立ち一定の利益が上がるなら、それはスピリチュアルな時代の進化の波が着実に押し寄せているということである。

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